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2012年02月23日  
住宅ローン相談サポート室 » 12月 2008

2008年12月

12.大正時代の別荘地の変貌(下)

11.大正時代の別荘地の変貌(下) 12月 10th, 2008

大正期には文人も多く訪れるようになった。明治の末から、若山牧水や島崎藤村、伊藤左千夫、正宗白鳥が軽井沢に立ち寄っている。大正2年5月、中勘助が追分に遊び、日記体で綴った「裾野」に浅間山麓の情景を描き、同9年、有島武郎が軽井沢での生活を描いた随筆紀行「信濃日記」を『新家庭』に発表、翌10年北原白秋が「落葉松」の詩を発表するなど、軽井沢が世に紹介されるようになった。12年、有島武郎が三笠の別荘で情死する事件は、軽井沢の名を全国的に知らせた。 
 大正13年、芥川龍之介は、室生犀星や堀辰雄とともに、旧道つるや旅館に滞在、翌年も訪れ、7月22日にはがきに「今日の午後1時頃この宿につきました。ここは夕方73、4度、雨の日は64、5度になるさうです。まだちょっと落ちつきません。町には西洋人が多い故、仲々ハイカラです。」と書いている。翌年も堀辰雄は軽井沢に滞在し、芥川龍之介のお伴をして、峠や追分、沓掛などの古駅をみてまわった。その後のいくつかの作品の舞台として軽井沢が登場し、文学の世界を通じて軽井沢が広く紹介されることになった。
 別荘地としての価値は上がり、土地や建物が安く手に入った明治の中ごろとは様子が一変した。日本人上流階級の避暑生活は宣教師たちには華美に見えるようになった。
 大正10年、軽井沢町では、別荘所有不在者税を徴収することになり、外国人の反対の中で実施された。
 こうした中で、外国人避暑客の中には、野尻湖の南岸、神山に外国人のみの別荘地を作る動きが出てきた。美しい湖のほとりに軽井沢の4分の1という地価の安さ(1坪1.11円)日本人を入れない外国人だけの別荘地ということで、軽井沢から移り住む人もいた。
 ’Nojiri Lake Association 1967 Year BookのHistorical Noteの項に
「After describing the initial visit Nojiri of a small group of “rebels” agaist the “Karuizawa pink teas,starched collars and seven conferences a week “Mr Mckenzie descrifed the early development of a NLA」
 という一節がある。初期の開発者マッケンジーは、1923年に三代目の村長をした人であるが、”Karuizawa pink teas”(華美な雰囲気)と”Starched collars and seven conferences a week”(一週間に何回もの気取った社交的な会)をきらって野尻湖へ移ったと読み取ることができる。宣教師や大戦に負けたドイツ人たちは経済的理由が最も大きかった。NLAの設立に長野のノルマンが大きくかかわり、日本人を入れない外国人だけのコミュニティをつくっていった。
 大正15年の7月の北信毎日新聞の”今の軽井沢”の一節に、
「お金のない人大きらい、といったブルジョア万能の土地となっていやしないか、貴族符号の如き特殊階級のみが楽しむこと許されているのではないか、資本家は、坪一銭以下の安価で土地を購入したけれど、今は一円以上でなければ売らないのである。貸別荘にしても、百円以上でなければ貸さないそうで、軽井沢に暑を避けようとすれば、月収千円以上もなければ到底できない相談である。」と書いているように、明治期と比べて、避暑生活に金がかかるようになってきた。

11.大正時代の別荘地の変貌(上)

11.大正時代の別荘地の変貌(上) 12月 4th, 2008

野沢原、千ヶ滝の大規模別荘地開発は、避暑のための別荘を日本の上流階級に普及させる素地をつくった。

大正元年(1912)には、193戸だった別荘は、14年には626戸と3倍以上になり、大正11年の71戸を最高に、年々数十戸の別荘が立てられるという増加を示した。

大正3年7月、新・旧軽井沢、沓掛、離山や別荘地の一部に長野電燈会社によって952燈の電燈がつき、福島安正(陸軍大将)が別荘を新築している。

翌4年には、草津軽便鉄道株式会社が、新軽井沢~小瀬温泉間に蒸気機関車で営業運転を始め、野沢原にも、大隈・徳川・細川家といった大型別荘が建築され、大正5年7月には尾崎行雄が南土取場に山荘(莫哀山荘)を建てた。

外国人の中でも、大正6年に、カナダ人R・M・アンドリウスが、一万五千坪の広い敷地に自家発電所をそなえて別荘を建て、鳥獣を飼育するなど、それまで見られなかった豪壮なものであった。

日本人の間でも、政界・財界をはじめ文化人など、上流階級による大型別荘が野沢原を中心に建てられるようになった。

大正8年、ゴルフ場建設の機運がもり上がり、翌9年、徳川慶久、田中寛、西巴清、ライフスナイダー外数名によって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は、大隈別荘付近の離山中腹、旧桂公別荘付近も候補に上がったが、野沢善次郎が提供することになった水源地付近に決まった。

敷地―6万坪、貸主―神田(金偏に、旁が雷、の文字)蔵、野沢善次郎、借主―徳川慶久、田中寛、立会人―加藤高明であった。地代は、最初の5年間は無料、つぎの5年間は年に1千円、さらにつぎの5年間は年に2千円の15ヵ年契約で会った。マニラのプログルファー、ニコルスを招いて、草ぼうぼうの荒地の現地踏査を行い、大体の設計を行った。

対象10年、サント・グリンの6ホールと野芝のフェアウエーができ上がり、11年夏には9ホールが完成した。

軽井沢ゴルフ倶楽部創立当時のメンバーをみると、会長徳川慶久、貴族13人、実業家25人、学者6人、外国人8人、その他30余名と政界、財界をはじめ文化人など、日本の上流階級が名を連ねている。

その後、グリーンを高麗芝に植え替え、摂政宮をお迎えするまでに整備が進み、クラブハウスが新築されて、軽井沢での第1号ゴルフ場は完成し、それまでの、テニスと野球に加えて、新しいスポーツの時代に入ることになった。

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