5.避暑客の運動と社交
05.避暑客の運動と社交 8月 30th, 2008明治30年(1897)には軽井沢合同基督教会(ユニオンチャーチ)が創立され、日曜日には9時の礼拝に急ぐ幾組かの紳士淑女が東から北から集まり、挨拶が交わされ、いくつかのグループになって語り合う姿が見られた。祈祷の沈黙に続いて讃美歌が静かに流れていた。
別荘に住んでいる外国人が午後のお茶(ティ)に招きあうこともあった。子どもたちはピーナッツキャラメルを好み、愛宕山への散歩を好んだ。日本に滞在していた両親が避暑していた時に身ごもった子どもたちは、軽井沢を自分の故郷だといっていた。 日本各地で布教につとめていた宣教師たちは、夏の二か月は同じ人種、同じことば同じ宗教の人たちと住んで、故郷感を抱き、精神的な安定を得ることができた。年頃の若者たちの新しいカップルも生まれた。朝夕の霧やアメリカのニューイングランドに似た砂地と雑木林の中に散らばる木造りの別荘は、心身の保養に最適の場所となった。 別荘に滞在した外国人たちは、娯楽を自然とスポーツに求めた。郊外への散歩やハイキングにはよく出かけた。庭先にコートをつくり、郊外にはベースボールグランドをつくった。子どもばかりでなく大人も嬉々としてゲームを楽しみ、汗を流した。紳士も淑女もラケットをにぎりボールを追った。集まっては野球を楽しみ、スタンドからは声援と拍手を送った。
日曜日には野外劇を楽しみ、水曜日にはコンサートを開いた。避暑生活での娯楽は社交的なものと運動会的なものが多くなっていった。
避暑客たちによる「野天演劇」は、庭園の池や水を背景として東西の名劇が演じられた。明治44年(1911)には、三井家の庭園でブラウニングの「パイパースパイプ」を演じて好評を博したといわれている。
また、水曜日の夜には避暑客による音楽会が行われた。町の西北にあった軽井沢倶楽部では避暑中の紳士・淑女が得意な演奏をし、少女の独唱などが行われた。時には講演会や骨牌会なども開かれ、霧に包まれた夜を楽しんだという。
しかし、娯楽の中心は運動にあったようである。
”The world do move” saith the Drother Jasper,In order to meet the movement of the Karuizawa world, the tennis club has blossomed out into the Karuizawa Athletic Associasion.
「世界は活動するものだ。と友人ジャスパーはいった。軽井沢テニスクラブは、軽井沢の天地の活を促すために、軽井沢運動の会として花々しく打って出た」(訳は当時のまま)
とその周囲所の冒頭に書いているように、はじめはテニスクラブとして始まったが、明治41年の夏に野球部を加え、社交と遠足会をあわせて、軽井沢運動会の組織に改めた。


