4.外国人別荘の作りと生活
04.外国人別荘の作りと生活 8月 29th, 2008明治27年(1894)、それまで人の住まなくなった家屋を別荘として利用していた外国人が、新築の別荘を建てた。”水車小屋の三軒別荘”という名で呼ばれ、つるや裏の水路ぞいにつくられた平屋建ての同じ形の別荘であった。現在も一部改修されているが2軒が残されている。 この別荘の写真を見ると浅間山に向かって広いベランダがあって籐いすが置かれ、夏の涼しさの中で、刻々変わる浅間の景色を味わえるようになっている。ベランダから入ると大きな室があって西の壁に暖(原本は火ヘン)炉が据え付けられ、一家だんらんの場所であり客を迎える室であった。東にはドアをへだてて小さい二つの室がつくられ、南に大きい寝室と小さい寝室が配置されていた。中央の大きい室でだんらんし、まわりの小さい寝室でそれぞれが休むという、西洋式の室の配置を見せているが、ドアばかりでなく日本式の引き戸も使われていた。小川に面して地階がつくられ、階段をおりると西にひろい台所がとられ、西南にパン焼き器のついたストーブが置かれていた。東にはバスとトイレがつけられていた。屋根は板ぶきで、外壁は横板張りにステンをぬった比較的うすいもので、夏の二か月を過ごす質素なものであった。
家のまわりには、簡単な竹の柵と門がつくられていたが、中はすっかり見える開放的なものであった。台所を出るとすぐ前に小川が流れ、炊事や洗濯に利用されていた。
これらの別荘に住む外国人たちの衣食住でもっとも苦労したのは、食料の調達であった。特に冷蔵庫の発達していなかった当時としては、新鮮な肉と牛乳を確保するのがたいへんであった。ときには、仲間とともに生きた牛を買ってきて木につないで草を食べさせておき、必要な時に屠殺してみんなで分けたり、乳牛から直接乳をしぼって煮沸して飲んだという話が伝わっている。
新鮮な野菜を得るために、雨宮新田の農家にキャベツを作ってもらったのは明治26年(1893)だといわれ、30年ころにはさかんに栽培されるようになった。はじめは、小川の水を飲料水につかっていたが、赤痢の発生によって、遠くの井戸から人を頼んで運ぶなど、今では考えられないような苦労があったようである。
明治末の別荘数は178戸で、そのうち135戸が外国人で断然多い。日本人名の別荘は40戸を数えるが、その半数は地元の旅館などの所有であるから、日本人の避暑別荘は20戸内外であった。当時の所有者をみると、華族、資産家、学者、軍人などの名前の知られた一部の上流階級に限られていた。明治39年(1906)から6年間に日本人が所有した別荘が10戸に対して、外国人が所有した別荘は74戸にのぼっていることからも、外国人が多かったことがわかる。
明治末の避暑客を国別にみると、アメリカとイギリスが多く、ついでドイツ、フランスと続くが、実に20カ国の人々が訪れていることがわかる(年表参照)。
夏に入ると、軽井沢駅で下車する外国人客は降車客の半数を越え、外国語と高い靴音がホームにひびき、外国の駅頭のようであったといわれている。外国人客は人力車でホテルに向かい、日本人客は旅館の番頭や別荘番に迎えられて旧軽井沢へ向かった。
旧軽井沢のまわりの原や山麓には色あざやかな内・外国人の別荘が建ち、広い野に草花が続いていた。白樺の木を植えた朱ぬりの別荘にはカーテンが見え、ナイフやフォークに皿が並べられて食事の用意をしている姿も見えた。外では小さな子どもが小さなシャベルを持って芝生に花を植えるなど、欧米の田舎を感じさせる風景が展開されていた。


