海外ロングステイ・国内デュアルライフフェア2008(主催:財団法人ロングステイ財団、日本経済新聞社 後援:経済産業省、国土交通省、総務省、農林水産省、日本旅行業協会)が東京ビッグサイトで開催されました。僅か一日だけの開催。いくつかのセミナーが予定されていて事前に希望者を募っていましたのでいくつか応募していたのですが、OKが出たのは一つだけ。それも午後4時からとセミナー時間帯の最終回のものという結果から、反響の大きさをある程度事前に感じてはいました。実際、会場を訪問してみて吃驚!!会場は、シニア層の二人連れを中心に、中には若い人もいましたが、大勢の人たちで混雑していました。狭い会場(ビッグサイト会議棟)ではありましたが、出展各ブースの椅子は質問者で埋まっていましたし、立って説明を聞く人もいて場内を歩くのも一苦労といった状況でした。
私は、国内デュアルライフの実践者の一人としてフェアは大いに関心あるテーマですし、住宅ローンアドバイザーとしての機能発揮のための情報収集も兼ねていました。が、会場の熱気の凄さに圧倒された感じでありました。改めて関心の高さを再認識した次第です。
別荘の庭で、子供たちのためのティー・パーティやゲームが行われ、苔の生えた樅の木の下でガーデン・パーティが開かれ、別荘へ来ている日本人ばかりでなく英米の子供たちも招かれた。
食事は、ベランダにつったドラを合図に、庭やコートにいる子供たちが集まって食べた。東京から連れてきた女中たちが、イギリス製の大きな鉄ストーブに薪をくべて、ビーフ・パイなどの西洋料理をつくった。軽井沢に来て食べる楽しみの一つはコーンだった。ふかしたての湯気の立っているコーンに、たっぷりバターを塗った。コーンの粒が舌の上ではじけると甘い汁が出る。
アイスクリームを自宅で作ることもあった。氷と塩をいっぱいつめた木製の樽のようなアイスクリーム機の手をグルグル回した。一時間ほどかけてやっとできたアイスクリームはまろやかなこくのある舌ざわりで、口いっぱいに幸福感がみなぎった。
そのころの軽井沢の遠乗りは自転車であった。私は赤い自転車を持っていて、別荘から下の町へ毎日相当なスピードで下りて行った。そのころは自動車は少なく、人も少なく、自転車であっちの別荘へ行ったり、こっちの別荘へ行ったりした。三、四人、あるいは五人、六人で自転車を乗り回すこと自体が結構面白かった。”学習院の男の方々の自転車競走”の話は、北白川宮佐和さまや細川護貞さんからもうかがった。
北白川宮、竹田宮、朝香宮の若いプリンスたち、近衛公爵、細川侯爵、酒井伯爵、柳沢伯爵方とジュニアたちが参加、親対息子のレースであった。
竹田宮は、日光に行っておられたが、軽井沢は遠出ができるし、乗馬、テニス、ゴルフその他のスポーツもできるというので、大正12年(1924)半田別荘を借り、のちに鹿島の森に別荘を建てられた。北白川宮も近藤別荘を借りておられ、大正15年に建った北白川別邸には、佐和さまのお母さまだけが逗留なさっていた。」
ここに(朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』)書かれている軽井沢での別荘での生活には黒田伯爵をはじめ、大正時代の上流階級の人々の名前が多く出てくる。当時、旧軽井沢や野沢原に別荘を持っていた人たちは、貴族や政治・経済界のトップに位置する人々とその家族であった。
表題の4回目搭載が計画より大分遅れてしまいました(お詫び)。
本シリーズ2回目で労金の懐の深さを指摘し、優遇適用後の金利水準が我が国住宅ローン取扱金融機関の中でトップクラスにある要因は、他金融機関の店頭金利水準よりやや低い水準に設定された標準金利に、いろいろな名目を持つ手厚い優遇措置が講じられていて、しかも優遇幅が他社と遜色ない水準であり、結果として住宅ローン取扱金融機関の中でトップクラスの低い適用金利水準を実現していると書きました。
今回は、住宅ローン借入を検討する際の判断基準になる総返済負担額を他社比較することで労金を見てみようと思います。
11月28日現在の中央労働金庫の10年固定金利選択型金利の優遇後金利1.8%は、取扱金融機関中第5位の低い水準であります(10年ものを勧める訳ではありません)。これをベースにして他社の金利などは表中のとおりとしました(期間経過後の次の10年間は、現行店頭金利が横ばいであるとみなして優遇適用を反映し、最後の10年間は、優遇幅分だけ店頭金利が上昇するとみなした金利で試算しました)。
結果を評価する際の留意点を2~3挙げておきます。
1.総負担額(A+B)は、中央労金が最も軽い結果となりました。その原因を元利金返済額(A)と借り入れ時諸費用負担額(B)に分けてみると、Aは住信SBIネットについで2番目、借り入れ時諸費用はソニー銀行について2番目です。金利水準の分析結果と同じようなことが言えるようです。
2.労金の元利金返済が軽いのは、借り以後当初10年間の金利1.8%の低さが効いています。10年経過後の次の10年間の金利水準は、中央三井信託銀行の方が低い適用金利になる優遇措置です。しかし、元利均等返済方式の計算上、労金の借り以後当初10年間の菌が低い分元本返済が進むので金利負担が軽く済むことになります。
3.この点ネット銀行は、ソニー銀行が期間にかかわらず優遇幅は一律0.9%であり、20年超の適用金利は一本です。よって、同社は、2.545%こていで試算しました。住信SBIネットは、15年ものまでがー1.5%優遇、20年以上がー2.2%優遇に分かれています。30年は優遇後2.50%です。ソニー銀行より低いのでこれでもって試算することにしました。
労金は、住宅ローン選択の際の有力な選択肢の一つと考えられるようですね。
昨日、フジテレビ(東京地区)放送の特ダネ(9時~)の中の特捜エクスプレス「ローン地獄破綻続々 ゆとりローンの問題点」なる番組を視聴しました。このゆとりローンについては、以前当日記でも取り上げたNHKをはじめTBS等も取り上げており、内容的には大同小異ではありましたが、言葉遣いのほか事実関係を正確に把握して番組制作がなされていた印象です。
このところ俄かにフォーカスが当たった感が強い「ゆとりローン」。なぜ今なのか?については、ゆとりローンの当初適用金利が史上最低の2.0%が1998年10月16日から12月27日までに申込んだ契約に適用され、その数が多数に上った(延べ64万人と同番組)からです(当時、公庫ローンは申込時点の金利が適用される仕組みでした。この点現在は、融資実行時点の金利が適用されます。商品の仕組みが基本的に異なります)。そのローン金利が実行後11年目以降倍の4.0%に引き上げられることになり、返済に窮する人たちが増えるのではないかと問題視されて取り上げられているのです(現在でも同様な仕組みの住宅ローンが出回っていますので注意する必要があります)。
でも、何故このようなゆとりローンが考え出されたのでしょうか?その時代背景なり、我が国の住宅政策なりを振り返っておくことは、これからの住宅政策問題を考えていく上で肝要なことです。また、住宅金融公庫を引き継いだ独立行政法人住宅金融支援機構が推進している【フラット35】では同様の問題は起こらないのか?等々を考えていく上でも有意義なことと考えます。
「ゆとりローンは国策による日本版サブプライムローン」(東京財団石川研究員)と指摘されたゆとりローンとは、H5年からH12年まで続けられた公庫の償還制度の適用を受けた公庫ローンのことです。S54年に新設されたステップ償還制度に続く住宅金融公庫の返済制度として当時「政府が例年以上に力を入れた」(1993年3月8日日経新聞)公庫改革の目玉の一つだったのです。H5年からH12年に廃止されるまで7年間続きました。これが問題となっているのは実はもっと別の基本的な問題があったのです。
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朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』の大正期の軽井沢の頃には、日本人による軽井沢での避暑生活がよく描き出されているので、その内容を要約する。
「大正6年(1917)、朝吹家は、黒田清伯爵に母が『軽井沢はいい所ですよ。ぜひ行っていらっしゃい』と、すすめられ、小坂家の別荘を借りて夏を過ごしたことにはじまる。父は静かで簡素な軽井沢が気に入って『バーが一軒もなく、子供の教育によい。』といって別荘を買う気になり、カナダの宣教師からハウスナンバー815の別荘を大正9年に買う決心をしたという。
別荘は愛宕山に登るアタゴ・レーンの中途にある古い別荘地にあり、矢ヶ崎川の両側の土手には大きなモミやカエダ、白樺、栗の木などが互いに枝を重ね合わせて立っていた。夕方、山から下りてくる白い霧、カッコーの声、せせらぎの音、黒光りするカブトムシ、大きな蛾、白い水玉の紙切り虫、杉苔の林、ヤニの青臭い匂い、激しい雷雨、ヤマカガシ、アオダイショウなどの蛇、セキレイ、キツツキ、リス、キジの鳥にいたるまで、自然は豊富で変化に富んでいた。
白い霧は煙のように庭をおおい、テニスコートに侵入し、ネットや赤いダリヤが白いベールに包まれる。真昼の高原は強い太陽の光が両腕の肌をこがし、白色の黄昏は住む世界を別世界に変える神秘さをもっていた。
水もおいしかった。別荘の敷地内に流れている小川から汲み上げた、冷たくて澄んだ山の水だった。水汲みばあさんと呼ばれた女の人たちが、天秤棒の前後に桶をつるし、小高い坂道を登って別荘に水を運び上げた。(桶一杯八銭か十銭)、別荘番もよく水を汲んで五右衛門風呂と台所の大きなかめに水を張った。
別荘は二階建てベランダつきの洋風建築でえんじ色のベンガラで塗った簡素な木造であった。二階に寝室が四つあり、階下に食堂、暖炉付きの居間、そして女中部屋があった。
大正の初めまでは石油ランプだったが、私費で電線を引いた。電燈の笠は手作りの目の粗い竹かごを逆さにつるしたような形で、内側に薄い羽二重が裏うちしてあり、縁にぐるっとリリアンの房が垂れていた。
家具は桜の花などの図柄の特産の軽井沢彫りの本棚や違い棚、テーブル、化粧台が置かれ、緑色に塗ったモダンな籐椅子が置かれていた。
ベッドは黒塗りに金色の真鍮の球の飾りがついたイギリス製のもの、日本製の木作りでバネのかわりに太い麻縄を張ったものが使われた。その上に木綿の蒲団が敷いてあった。
5,6歳の頃の私は、山に登ったり、ピクニックに行ったり、赤い自転車に乗ってと遠出をしたりした。兄たちと庭の樅の木の枝で小屋を作ったり、ロビン・フッドごっこをしたりして飛び回った。矢ヶ崎川の川べりに下りて、裸足になり、重い石を動かして防波堤を作ることもあった。洋服の裾が水でぬれないように、スカートをブルマーズにたくしこんで水の中を歩いた。こういう土木工事は軽井沢でなければできない遊びで、私たちは熱中したが、都会の子どもにとって新鮮な興奮であった。

