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軽井沢日記TOP » 8月 2008
2008/8/31 日曜日 at 14:52:03

 明治末まで、旧軽井沢のまわりに個々に土地を求め、別荘が建てられていた軽井沢が、大正に入ると大規模な別荘地開発、別荘分譲によって西に拡大しはじめた。
 大正元年(1912)、群馬県安中の半田善四郎が、11万5119坪の土地を別荘地として分譲を始め、貸別荘経営を行った。半田山と呼ばれる一帯である。
 大正4年、野沢源次郎は川田龍吉・肥田濱五郎所有の土地を譲り受け、続いてその周囲の土地を買収して、離山付近から三度山までの約200万坪にわたって土地分譲と別荘経営をはじめた。
 まず、道路の整備に着手し、雲場池から六本辻にかけて、幅員三間の直線的な道路を縦横に設け、「かしわ通り」・「ゆりのき通り」などの名前をつけ、土地の区画整理を行った。それまでの字(あざ)を廃し、自分の姓をとってこの一帯を「野沢原」と新しい名前をつけた。付近は広漠とした草原であったが、アメリカ式建築設計施工、家具製作販売を行っていた株式会社「あめりか屋」によって別荘を50戸ほど建築した。さらに、別荘客の生活の便をはかるため、東京の一流商店を出展させ、日用品の供給や理髪等のサービスを行った。
 人家がすくなかったので治安のために交番をおき、官舎をつくるために敷地を提供するなどの心くばりもあった。土地の分譲を受けた人の中には、徳川慶久・大隈重信・細川護立・後藤新平・加藤高明・鈴木喜三郎など政界・財界・軍人・学者・文士らが多く、大型の別荘が次々に新築された。その中でも前田・大隈・徳川別荘などは大規模で、広大な敷地に西洋建築の近代的別荘がそびえ、離山の下にあった大隈別荘は駅前から見ることができた。道路にそってはもみの木が植えられ、草の多かった敷地にも松やカエデなどの木が育った。軽井沢観光のポスターに使われている細川邸内のニレやモミの並木は、このころ植えられたものである。
 野沢源次郎は、青年時代から病弱であったが、大正3年(1914)青山胤通医博に軽井沢への転地療養を勧められ、はじめて軽井沢を訪れた。長い間悩まされていた病が回復するのを感じとった彼は、それ以後毎年軽井沢で夏を過ごすことになった。夏の軽井沢は低い温度と湿度による涼しさばかりでなく、オゾンの多い清浄な空気と火山灰や軽石に被われたなだらかな草原が彼の病気をいやした。散歩の途中、自然の中での外国人の避暑生活を見聞し、旧軽井沢の西に広がる草原に、新しい高原保養地をつくろうとする事業意欲をもった。
 そのため、別荘地を造成して土地分譲、貸別荘経営ばかりでなく、軽井沢通俗夏期大学の行動や寄宿舎を建築して無償で提供したほか、旧ゴルフ場開設に際して所有地6万坪を提供するなど、運動・勉学などにも援助をおしまなかった。源次郎自身も毎夏軽井沢で療養していたが、後に離山下の桂太郎の別荘を手に入れて、晩年にはコブシの花の咲く頃から秋まで滞在し、94歳で亡くなるまで軽井沢を愛した一人であった。


2008/8/30 土曜日 at 8:40:29

 明治30年(1897)には軽井沢合同基督教会(ユニオンチャーチ)が創立され、日曜日には9時の礼拝に急ぐ幾組かの紳士淑女が東から北から集まり、挨拶が交わされ、いくつかのグループになって語り合う姿が見られた。祈祷の沈黙に続いて讃美歌が静かに流れていた。
 別荘に住んでいる外国人が午後のお茶(ティ)に招きあうこともあった。子どもたちはピーナッツキャラメルを好み、愛宕山への散歩を好んだ。日本に滞在していた両親が避暑していた時に身ごもった子どもたちは、軽井沢を自分の故郷だといっていた。

 日本各地で布教につとめていた宣教師たちは、夏の二か月は同じ人種、同じことば同じ宗教の人たちと住んで、故郷感を抱き、精神的な安定を得ることができた。年頃の若者たちの新しいカップルも生まれた。朝夕の霧やアメリカのニューイングランドに似た砂地と雑木林の中に散らばる木造りの別荘は、心身の保養に最適の場所となった。 別荘に滞在した外国人たちは、娯楽を自然とスポーツに求めた。郊外への散歩やハイキングにはよく出かけた。庭先にコートをつくり、郊外にはベースボールグランドをつくった。子どもばかりでなく大人も嬉々としてゲームを楽しみ、汗を流した。紳士も淑女もラケットをにぎりボールを追った。集まっては野球を楽しみ、スタンドからは声援と拍手を送った。
 日曜日には野外劇を楽しみ、水曜日にはコンサートを開いた。避暑生活での娯楽は社交的なものと運動会的なものが多くなっていった。
 避暑客たちによる「野天演劇」は、庭園の池や水を背景として東西の名劇が演じられた。明治44年(1911)には、三井家の庭園でブラウニングの「パイパースパイプ」を演じて好評を博したといわれている。
 また、水曜日の夜には避暑客による音楽会が行われた。町の西北にあった軽井沢倶楽部では避暑中の紳士・淑女が得意な演奏をし、少女の独唱などが行われた。時には講演会や骨牌会なども開かれ、霧に包まれた夜を楽しんだという。

 しかし、娯楽の中心は運動にあったようである。
 ”The world do move” saith the Drother Jasper,In order to meet the movement of the Karuizawa world, the tennis club has blossomed out into the Karuizawa Athletic Associasion.
「世界は活動するものだ。と友人ジャスパーはいった。軽井沢テニスクラブは、軽井沢の天地の活を促すために、軽井沢運動の会として花々しく打って出た」(訳は当時のまま)
 とその周囲所の冒頭に書いているように、はじめはテニスクラブとして始まったが、明治41年の夏に野球部を加え、社交と遠足会をあわせて、軽井沢運動会の組織に改めた。


2008/8/29 金曜日 at 10:30:12

 明治27年(1894)、それまで人の住まなくなった家屋を別荘として利用していた外国人が、新築の別荘を建てた。”水車小屋の三軒別荘”という名で呼ばれ、つるや裏の水路ぞいにつくられた平屋建ての同じ形の別荘であった。現在も一部改修されているが2軒が残されている。

 この別荘の写真を見ると浅間山に向かって広いベランダがあって籐いすが置かれ、夏の涼しさの中で、刻々変わる浅間の景色を味わえるようになっている。ベランダから入ると大きな室があって西の壁に暖(原本は火ヘン)炉が据え付けられ、一家だんらんの場所であり客を迎える室であった。東にはドアをへだてて小さい二つの室がつくられ、南に大きい寝室と小さい寝室が配置されていた。中央の大きい室でだんらんし、まわりの小さい寝室でそれぞれが休むという、西洋式の室の配置を見せているが、ドアばかりでなく日本式の引き戸も使われていた。小川に面して地階がつくられ、階段をおりると西にひろい台所がとられ、西南にパン焼き器のついたストーブが置かれていた。東にはバスとトイレがつけられていた。屋根は板ぶきで、外壁は横板張りにステンをぬった比較的うすいもので、夏の二か月を過ごす質素なものであった。
 家のまわりには、簡単な竹の柵と門がつくられていたが、中はすっかり見える開放的なものであった。台所を出るとすぐ前に小川が流れ、炊事や洗濯に利用されていた。

 これらの別荘に住む外国人たちの衣食住でもっとも苦労したのは、食料の調達であった。特に冷蔵庫の発達していなかった当時としては、新鮮な肉と牛乳を確保するのがたいへんであった。ときには、仲間とともに生きた牛を買ってきて木につないで草を食べさせておき、必要な時に屠殺してみんなで分けたり、乳牛から直接乳をしぼって煮沸して飲んだという話が伝わっている。
 新鮮な野菜を得るために、雨宮新田の農家にキャベツを作ってもらったのは明治26年(1893)だといわれ、30年ころにはさかんに栽培されるようになった。はじめは、小川の水を飲料水につかっていたが、赤痢の発生によって、遠くの井戸から人を頼んで運ぶなど、今では考えられないような苦労があったようである。

 明治末の別荘数は178戸で、そのうち135戸が外国人で断然多い。日本人名の別荘は40戸を数えるが、その半数は地元の旅館などの所有であるから、日本人の避暑別荘は20戸内外であった。当時の所有者をみると、華族、資産家、学者、軍人などの名前の知られた一部の上流階級に限られていた。明治39年(1906)から6年間に日本人が所有した別荘が10戸に対して、外国人が所有した別荘は74戸にのぼっていることからも、外国人が多かったことがわかる。
 明治末の避暑客を国別にみると、アメリカとイギリスが多く、ついでドイツ、フランスと続くが、実に20カ国の人々が訪れていることがわかる(年表参照)。
   hishokyakusuii20080829.JPG
 夏に入ると、軽井沢駅で下車する外国人客は降車客の半数を越え、外国語と高い靴音がホームにひびき、外国の駅頭のようであったといわれている。外国人客は人力車でホテルに向かい、日本人客は旅館の番頭や別荘番に迎えられて旧軽井沢へ向かった。
 旧軽井沢のまわりの原や山麓には色あざやかな内・外国人の別荘が建ち、広い野に草花が続いていた。白樺の木を植えた朱ぬりの別荘にはカーテンが見え、ナイフやフォークに皿が並べられて食事の用意をしている姿も見えた。外では小さな子どもが小さなシャベルを持って芝生に花を植えるなど、欧米の田舎を感じさせる風景が展開されていた。


2008/8/28 木曜日 at 8:15:48

 内・外国人の別荘は、軽井沢宿のまわりにつぎつぎに建てられ、明治39年(1906)には18戸増えて113戸となり、それ以後年々20戸ほどの別荘が増加(うち日本人は2~3戸)したので、軽井沢周辺は大きく変貌していった。そこで軽井沢郵便局では東・西・南・北に分けて別荘番号を付けて郵便物の配達が容易に正しく行われるようにした。 佐藤孝一著「かるゐざわ」によると明治末の別荘分布の概要はつぎのごとくであった(明治の頃の文章をもとにして)。
 <東区>(East Part)宿の東、中山道より南、諏訪道より東の山麓に開けた草野一帯で、展望の開けたところである。森裏、釜の沢、桜の沢、丸小山、今道沢に別荘があり、21年(1888)5月にあ建てられたショー氏の別荘は大塚山の頂上にあって、浅間山の眺めが素晴らしかったといわれている(現在大塚山頂には建物はない)。
 また、泉源亭は31年、子爵末松謙澄が建てた別荘で、川越石川に臨み、山中の清水の流れを邸内に引き入れている(現東海銀行寮)。桜の沢には35年に宿場の通りにあった万平ホテルが移転した。2万坪の広大な敷地に洋室22をもつ洋風建築であった。
 <北区>(North Part)碓氷旧道の北から、草津新道の東、宿の北部一帯をさし、一ノ字山、愛宕山中腹と麓にあたる。当時の愛宕山には大きな木がなく眺望のよい別荘地であった。高瀬沢、愛宕道、吉ヶ沢に別荘が点在していた。とくに英国大使館別荘は、二手橋の東にあり、5万坪の敷地にはモミの大木がしげり、自然を生かした深い森の中にあった。愛宕山の西南には三井家の別荘があり、庭の西隅に日本女子大学の夏期寮「三泉寮」が建てられていた。
 宿の東端にはつるや旅館があり、その裏には「水車小屋の三軒別荘」といわれた外国人による新築別荘が並んでいた。
 <西区>(West Part)草津新道の西、旧中山道の北の平坦地で、長尾の原、西山、深山から離山、さらには北へのびて三笠と呼ばれる地域にあたる。江木衷、新渡戸稲造、二条公爵、川田龍吉、鹿島岩蔵などの日本人別荘が多く、ほかの3地区に比べると新しい地域といえる。
 北にはなれて、明治38年(1905)に落成した木骨様式の三笠ホテルが人々の目を引いていた。また、離山の東山麓で雲場池近くにも4軒ほどの外人別荘があり、長尾の原一帯は広々とした草野原であった。
 <南区>(South Part)町の南部一帯の草野で東は矢ヶ崎より西の地域で、森前、上森、下森、森裏、押出橋の別荘地をさす。平坦の広い原であるが別荘は宿に近い地域に建てられていた。日本人で初めて別荘を建てた八田裕二郎、佐々木政吉などの別荘があった。

 <離山>軽井沢の西離山の麓に雨宮邸、鉄道線路の南の林の安価に桂太郎の別荘があった。

 <追分>追分宿の南に鉄道院の野村龍太郎、坪井清次郎の別荘があった。


2008/8/27 水曜日 at 10:26:17

 明治26年(1892)日本人として初めての別荘が、海軍大佐八田裕二郎のよって建てられた。八田は、東伏見宮の随行員としてイギリス・フランスに旅行し、二十二年に帰朝したが、健康を害していた。ヨーロッパのアルプスでの高原療養を見聞していた彼は、北海道、日光、箱根にと空気の清涼な土地を求めたが、地形の広さ、湿度、交通上などの条件を満たさなかった。
  火山灰に被われた標高一〇〇〇メートル近い軽井沢の清涼で湿度の低い空気と、南に開かれた地形や乾燥の早い土地は、オゾンが多く彼の健康を増進させた。軽い草履にステッキという姿で、散歩をするのに適した草原が広がっていた。八田は、モンブランにも勝る避暑地と思って、旧軽井沢の西南の端に別荘を建てた。軽井沢で健康を取り戻した彼は、日本赤十字病院長の橋本綱常やドクトル・ベルツとともに、夏の転地療養に高原の軽井沢へ別荘を建てることをすすめた。外国人ばかりでなく末松謙澄・三井三郎助・樋上専次郎・江木衷・佐々木政吉らが明治三一、二年ころ別荘を建てることになった。
 また、八田裕二郎は学習院の学生をつるや旅館(新軽井沢)に宿泊させ、健康の増進をはかるとともに、多くの外国人と接して修養の機会とさせた。これらの学生の中には、徳川慶久のように後に別荘を建てた人が多かったといわれ、日本の上流社会に別荘建築が行われる契機となっていった。


2008/8/26 火曜日 at 8:52:27

1.ショー、ディクソンによる避暑

 明治16年(1883)夏、軽井沢三度屋に経済学者として世界的に著名なベルリン大学教授カール・ラートゲンが滞在、明治19年には宣教師であったアレキサンダー・クロフト・ショーと帝国大学文科講師ディクソンの二人が、旅行の途中相前後して軽井沢を訪れた。人通りの少ない静かな宿場、そのまわりに広がる草原と林、浅間山の雄大な山容となだらかな裾野の景観に心をひかれた二人は、七月上旬家族を伴って再び訪れた。ショー一家は高林薫平居宅、ディクソン一家は佐藤万平(注1)所有の家屋を借り受け、八月下旬まで滞在した。

 カナダのトロント市に生まれ、父のもとで神学校に学び、卒業後日本に派遣されて東京麻布の教会で牧師をしていたショーとその家族による軽井沢での生活は、自然の中で健康的なものであった。明治6年(1873)9月に横浜に上陸して以来、日本語の勉強、慶応義塾でキリスト教倫理学の講義、日本各地での宣教活動の中で、高温多湿の日本の夏の生活は、ショーにとって苦痛に感じたことだろう。  
後にショーの長男(R.D.M.ショー)が佐藤不二男にあてた手紙の中で「胸いっぱいに吸った空気の甘さは、軽井沢以外では知らない。景色雄大、小鳥のさえずり、百花の妍、父が家族の健康のため軽井沢を選んだことを今でも嬉しく思う。子供心にも軽井沢は天国と思った」と述懐しているように、すんだ空気、緑におおわれたなだらかな草原、松やモミとカエデの混交林、朝夕に流れる霧は、はるか故郷を遠く離れた寂しさをいやした。ショーとディクソンは、軽井沢の夏のすばらしさについて語り、十数名の友人をさそって、翌二十年にも避暑にきた。この二夏の経験によって軽井沢の良さを確認したショーは、二十一年つるや主人佐藤仲右衛門の斡旋で民家を移築改造し、大塚山に別荘を作った。ディクソンは佐藤万平宅地内に別荘を建てた。これが軽井沢における避暑別荘の始まりである。

  ショーは、その後毎年家族をともなって軽井沢を訪れ、イギリス聖公会堂を開いて布教をするとともに、子供たちと気を伐り、氷池で泳ぐなど、自然の中での生活を行った。
 明治22年(1889)、二人の誘いを受けたキルベ(貿易商)、ヴェール(青山学院教師)、ミス・アレキサンダーが別荘を建てた。ミス・アレキサンダーは、頌栄女学校生徒に二十余名を引率して、涼しい軽井沢で林間教育を行った。この年避暑客は生徒を除いて三十余名となった。
 明治23年には、英国公使館ヒュー・フレザーが、二手橋近くの五万坪の敷地に別荘を建てた。外国人の避暑客が多くなると、亀屋旅館でも貸間を提供して便をはかった。別荘も二十一年に二戸が建てられたのをはじめ、三戸、五戸と建てられていった。
 二十八年(1895)にイギリス人宣教師ホワイトの建てた別荘は、廃屋のようになっていた家を、非常に安く買い受けて改造したものであった。土地は一坪わずか三銭から、高くても十二銭ぐらいで、実業家や大学講師のように経済的に恵まれていなかった宣教師でも、容易に別荘を持つことができた。また、夏休み中の二か月を過ごすためのものであったから、山小屋に近い簡素なものでよかった。
 

(注1)軽井沢万平ホテル(前身は旅館「亀屋」、佐藤万右衛門が開業)の黎明期を発展させた重要人物の一人で初代万平。もう一人は佐藤国三郎で初代万平の娘婿。二代目万平を襲名。軽井沢万平ホテルのHPでも「私たちは二人の意志を今に引き継いでいるのです」とあります。なお、町誌には(注)書きはありません。


2008/8/25 月曜日 at 10:23:38

住宅ローンの融資額上限なしをウリとするHSBCプレミアのスマート住宅ローンを紹介しましたが、1億円以上の高額ローン商品を扱う先はそうありません。そんな中で住宅ローン融資額が2億円まで(と上限はありますが)のGE Money億さまプラン(以下GE)があります。両商品を比較してみました。
hsbc-ge20080823.JPG
両商品のおもな相違点は、
①融資金額に上限なし(HSBC)と、2億円まで(GE )のほかに、
②返済期間が35年以内(HSBC)に対して、GEは40年以内と5年間長い
③返済方法が元金均等返済のみ(HSBC)に対して、GEは元利均等返済のみである
④団信加入は任意で借入人負担(HSBC)に対して、GEは強制で保険料同社負担である
⑤事務手数料が73500円(HSBC)の定額制に対して、GEは貸付金×1.5%(例:1.2億円の場合、180万円)と定率制である
⑥その他手数料面で定額と定率の違いや、1回あたりの金額の多寡の違いが見られる。
この商品は、融資対象が高額物件購入者という経済的に恵まれた層の方々なので細かい問題を指摘するのはこの際止めておきます。

肝心の金利について触れませんでしたので、以下比較してみておきます。
hsbc-ge-kinri.JPG
一覧するとHSBCがGEより全体的に基準金利が低く設定されている印象を受けます。しかし、よく見ると、HSBCは担保の掛け目によって金利が最大0.6%上乗せされる仕組みに対して、GEは借入人の保有資格などによって最大1%の金利優遇が受けらるなどの違いがあります。実際に高額物件購入時には、個々のケースに当てはめて総合的に比較検討してみる必要がありそうです。


at 9:08:48

第三世代の住問題としたのは、以下の理由からです。学校卒業までが第一世代、サラリーマン卒業までが第二世代、その後の人生が第三ステージと捉えているからです。敢えて第三世代と呼ぶのは、団塊世代と呼ぶには対象が限られ的確でない、老後と呼ぶには言葉の響きに躍動感がなく適当でない等からこう呼ぶことにしました。

シリーズの3回目は、ジャーナリスト蟹瀬誠一さんのケーススタディです。8月1日付日経新聞26面の全面広告「豊かな住生活に貢献する住宅産業」から転載して紹介することにします。

自分らしい住まいをカタチにしてみたくなった
 僕(蟹瀬さん)はもともと家を所有することには魅力を感じていませんでした。不動産というくらいですから、所有すると自由に動けなくなってしまう。仕事の上でも何か新しいことに挑戦したくなった時、自由に拠点を構えられる気ままな賃貸暮らしを手放すつもりはありませんでした。
 しかし五十代も半ばを過ぎるころから、そろそろ自分自身が落ち着ける場所が欲しいと考えるようになりました。そんな時、米国の経済学者の書いた本の中で人生における四つの資産という考え方に出合って、本格的に家を持つことを考えるようになりました。(略) もし自分に所得がなくなっても、とりあえず家さえあれば寝る場所は確保できる、そんな安心感が欲しくなりました。そしてそれ以上に、借りものではない本当に自分らしい住まいを形にしてみたくなったのです。

 ヨーロッパなどに度々取材に出かけますが、北欧やロシアではごく普通の人がウイークエンドハウスを郊外に持っていて、週末になると都会を離れて自然に親しんでいる。また都市自体にも緑が多く、自然との共生を考えて造られている。東京に帰ってくると、まさに都市機能だけの街。自然との触れあいの大事さを痛感するようになってきました。
 とはいえ、僕は田舎暮らしをしたいわけではありません。田園都市というか、自然に親しみながらも都市の利便性も享受できる、そんな場所が理想でした。
 かつて田園都市構想によって整備された街もありましたが、今は都会の中にのみ込まれています。二十一世紀の田園都市はどこだろうと探してみて、出合ったのが軽井沢です。
 ご存じのように軽井沢は新幹線、高速道路も整備され交通アクセスが非常に良い。都心から一時間の通勤圏内にあります。その上、素敵なホテルやおいしいレストランもあり、都市的なアメニティも充実しています。住んでいる方々も多士済々で個性に富んだコミュニティが形成されています。
 そして何よりも自然がすばらしい。鳥のさえずりとか森の彩りの移り変わりなどがごく身近に感じられる。軽井沢に住むまでは木の芽が出てきたというだけで感動するようなことはなかったですね。(略)

家は価値観表現の場 生きざまや経験が表れる
家というのは無論生きていく上での拠点ですが、自分の価値観を表現する場とも思います。その人の生きざまとか物の考え方が家には表れるのです。僕の場合は自然との共生と、要らないものは省いていくというシンプルスタイル。都会ではなかなか理想の実現は難しかったのですが、軽井沢ではとことんこだわりました。(略)

 この軽井沢の住まいは別荘ではありません。こちらでも仕事をしていますし、まもなく住民票も移して本格的に地域コミュニティの一員としての暮らしが始まります。冗談で町長にならないかとも言われました(笑い)。一方で、都心のオフィス兼住居もそのままにしています。東京と軽井沢を行ったりきたりしているわけですが、やりたいことがたくさんあって大いに忙しいですね。
 人生を一本の線にして描いてみてくださいとお願いすると、多くの方は放物線を描かれます。生まれてから壮年期を迎えるまで上昇し、あとは人生のたそがれに向かってなだらかに下降していく線です。でも僕の周りの元気なシニアに描いてもらうと、みな右肩上がりの直線ばかり。つまりしぬ時が人生のピークというわけす。僕もそうありたいと願っています。
 今実践しているこの東京と軽井沢の暮らしも、そんなアクティブな人生を実現するための僕なりの方法です。もちろんすべての人に当てはまるものではありませんが、日本人の価値観が多様化して、ライフスタイルもさまざまになっている現在、人生の器である住まいや暮らし方が多様化していくのは当たり前のことです。

第三世代の住問題(1)ケーススタディわたくしの場合はこちら
第三世代の住問題(2)紀平正幸氏のコラムからはこちら


2008/8/24 日曜日 at 13:25:36

 第三世代の住問題としたのは、以下の理由からです。学校卒業までが第一世代、サラリーマン卒業までが第二世代、その後の人生が第三ステージと捉えているからです。敢えて第三世代としたのは、団塊世代と呼ぶには対象が限られ的確でない。老後と呼ぶには言葉の響きに躍動感がなく適当でない等からこう呼ぶことにしました。

シリーズ「第三世代の住問題」を考えるの2回目は、私が一方的に師と尊敬する紀平正幸氏のコラムから引用させていただいたものを紹介することにします。紀平さんとの出会いについてはこちらに記してありますが、私が住宅ローンアドバイザーを真剣に考えるきっかけを提供してくださった、と私の中では思っている方です。 某氏の紹介を得て千代田区麹町の事務所に紀平さんを訪ねたのは2007年11月末のこと。一時間足らずの面会でしたが、人柄、発想、行動、私の想像通りの方との印象を強く抱きました。それを契機に一層大きな関心を持つことになりました。余談ですが、帰宅後興奮を抑えられず妻に紀平さんとの面談を話しました。「良かったですね」との反応。その時は二人の会話がそれ以上発展することはなかったのですが、その後の日常生活の中で紀平さんの記事を見つけると、「先生のお書きになった記事が出ていますよ」と妻が教えてくれる。そんな紀平氏のコラムに私が共感できる考えに基づく行がありましたので、事前承諾はいただいておりませんが転載させていただくことにします。コラムは、同氏が主宰する東京FPコンサルティング㈱のHPの中のウイークリーコラム欄に3回にわたって書かれた「マイホーム 購入と賃貸の選択」にあります。以下その3回目から転載します。マイホームから老後資金をつくりだす
今後も公的年金の受給開始時期が遅くなり、受給額も削られるため年金収入だけでは老後資金が不足します。このコラムの3月8日掲載の『成熟時代の老後資金の考え方』で試算しているように、現在40代のサラリーマン世帯では年金収入で不足する老後資金は約3000万円になります。
労務行政研究所「退職金・年金事情2005年版」によると、大学卒の60歳退職金は平均2400万円となっています。したがって、不足分を退職時までに準備するか、60歳以降も働くなどして収入を得ることが必要となっています。
そこで、この老後資金の確保の一つの方法として、マイホームというストックを老後資金というフローに換えることを考えてみてはいかがでしょうか。つまり、子育てに使った広いスペースの住まいから、夫婦二人の生活にあったスペースに住み替えるのです。住み替えには、いくつか選択肢があります。それぞれについて、活用方法などを考えてみましょう。
売って買う
1つ目は、今までの住まいを売却して、中古の住まいに買換えてその差額の資金を老後資金にします。子育てをしてきた広い住まいは、老後の二人のためには広すぎるし、高齢者が住むためにはバリアフリー化のためのリフォームが必要になってきます。たとえば築30年程度の3LDKのマンションを売却して、売却代金の中から築10年程度の中古マンションに買い換えれば、高齢者になっても使える設備や使用の間取りを選ぶことも可能です。

売って借りる
2つ目は、今までの住まいを売却して、老後は賃貸住宅に住み替え、売却資金を住まいの家賃と老後資金に充てる方法です。従来、高齢者は家賃の不払いや病気、事故などの理由から入居が敬遠されがちでした。しかし2001年の「高齢者の居住の安定確保に関する法律」が施行されてから、高齢者の住まい環境は大きく改善されています。
たとえば、財団法人高齢者住宅財団(http://www.koujuuzai.or.jp/)では、高齢者が入居可能な賃貸住宅の情報を提供しています。これは「高齢者円滑入居賃貸住宅」の登録・閲覧制度といい、全国の60歳以上の高齢者の入居を拒まない賃貸住宅をHP上などで閲覧できるようにしている制度です。

貸して借りる
3つ目は、今までの住まいを貸して、自分たちは夫婦の暮らしにあった小さな賃貸住宅に住み替える方法です。貸す広い住まいの賃料収入と、借りる狭い住まいの支払い賃料との差が老後資金の足しになります。
定年を過ぎても、しばらくは終の棲家を決める気にはなかなかならないものです。しばらくは田舎暮らしや、都会暮らし、海外でのロングステイなど自由な時間を楽しみ、70歳になる頃には、そろそろ終の棲家も決まってくることでしょう。
子育てをした懐かしい我が家に戻ってもいいし、体調が心配なら住まいを売却して施設に入るのもよいでしょう。
こうして、購入したマイホームを活用することも考えてみてはいかがでしょうか。

第三世代の住問題(1)ケーススタディわたくしの場合はこちら


2008/8/23 土曜日 at 13:55:42

先日、日経新聞に「省エネ・200年住宅・2世帯向け ローン減税 新設」なる記事を目にしました。住宅ローン減税については、現行制度が今年度で終了すること、足もとの景気対策の一環として存続を図りたいとの狙いが当局にはあるような視点から書かれたものが2週間ほど前にも掲載されていました。目先の人気取り政策として住宅ローン減税を考えるとしたら本旨に非ずと考えます。

住宅ローン減税措置は、本来的には景気対策といった目先の需要喚起策的発想でとらえるものではなく、長期的な発想のもと国民の資産形成に真に資するものでなければならない、との思いが私には強くあります。今回は、景気対策的視点は一応影が薄れてはいますが、本音のところはまだよく見えてきません。しかし、省エネにしろ200年住宅にしろ(2世帯向けを同列に議論するのは無理なような気がしますが)重要な政策課題であり、”当面”を乗り切ればいいテーマではない筈です。

従来の住宅ローン減税の視点は、新築住宅取得者向けの所得税減税でありました。住宅の規模と住宅ローンの借入額と年収などが決定要因でした。減税を享受できるのが当初購入者だけに限って適用されてきました。省エネは、新築時のみならずたとえそれが中古市場に出た場合でも省エネ住宅としての機能を装備しているものです。減税の適用に当たっては中古取得者にもその権利が及ぶような税適用体系を考え出していただきたいものです。200年住宅については尚更この点は明確です。住宅戸数は、世帯数との関係からみると充足されたと見られる水準にあります。

従って、今回の住宅ローン減税は、今後の我が国の住文化を変革するくらいの気概を持って考え出してほしいものです。卑しくも重箱の隅をつつく様な場当たり的な減税措置にならないよう優秀な関係者が知恵を出し合っていただきたいものです。