~株式会社エフスタイル軽井沢。パイン家具、ソファ、ホーロー、住宅ローンソリューションズのご提案~

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2008/11/24 月曜日 at 12:05:12
Posted by eiji in その他

 朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』の大正期の軽井沢の頃には、日本人による軽井沢での避暑生活がよく描き出されているので、その内容を要約する。
「大正6年(1917)、朝吹家は、黒田清伯爵に母が『軽井沢はいい所ですよ。ぜひ行っていらっしゃい』と、すすめられ、小坂家の別荘を借りて夏を過ごしたことにはじまる。父は静かで簡素な軽井沢が気に入って『バーが一軒もなく、子供の教育によい。』といって別荘を買う気になり、カナダの宣教師からハウスナンバー815の別荘を大正9年に買う決心をしたという。
 別荘は愛宕山に登るアタゴ・レーンの中途にある古い別荘地にあり、矢ヶ崎川の両側の土手には大きなモミやカエダ、白樺、栗の木などが互いに枝を重ね合わせて立っていた。夕方、山から下りてくる白い霧、カッコーの声、せせらぎの音、黒光りするカブトムシ、大きな蛾、白い水玉の紙切り虫、杉苔の林、ヤニの青臭い匂い、激しい雷雨、ヤマカガシ、アオダイショウなどの蛇、セキレイ、キツツキ、リス、キジの鳥にいたるまで、自然は豊富で変化に富んでいた。
 白い霧は煙のように庭をおおい、テニスコートに侵入し、ネットや赤いダリヤが白いベールに包まれる。真昼の高原は強い太陽の光が両腕の肌をこがし、白色の黄昏は住む世界を別世界に変える神秘さをもっていた。
 水もおいしかった。別荘の敷地内に流れている小川から汲み上げた、冷たくて澄んだ山の水だった。水汲みばあさんと呼ばれた女の人たちが、天秤棒の前後に桶をつるし、小高い坂道を登って別荘に水を運び上げた。(桶一杯八銭か十銭)、別荘番もよく水を汲んで五右衛門風呂と台所の大きなかめに水を張った。
 別荘は二階建てベランダつきの洋風建築でえんじ色のベンガラで塗った簡素な木造であった。二階に寝室が四つあり、階下に食堂、暖炉付きの居間、そして女中部屋があった。
 大正の初めまでは石油ランプだったが、私費で電線を引いた。電燈の笠は手作りの目の粗い竹かごを逆さにつるしたような形で、内側に薄い羽二重が裏うちしてあり、縁にぐるっとリリアンの房が垂れていた。
 家具は桜の花などの図柄の特産の軽井沢彫りの本棚や違い棚、テーブル、化粧台が置かれ、緑色に塗ったモダンな籐椅子が置かれていた。
 ベッドは黒塗りに金色の真鍮の球の飾りがついたイギリス製のもの、日本製の木作りでバネのかわりに太い麻縄を張ったものが使われた。その上に木綿の蒲団が敷いてあった。
 5,6歳の頃の私は、山に登ったり、ピクニックに行ったり、赤い自転車に乗ってと遠出をしたりした。兄たちと庭の樅の木の枝で小屋を作ったり、ロビン・フッドごっこをしたりして飛び回った。矢ヶ崎川の川べりに下りて、裸足になり、重い石を動かして防波堤を作ることもあった。洋服の裾が水でぬれないように、スカートをブルマーズにたくしこんで水の中を歩いた。こういう土木工事は軽井沢でなければできない遊びで、私たちは熱中したが、都会の子どもにとって新鮮な興奮であった。
 


2008/11/9 日曜日 at 12:00:06
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 大正2年(1913)避暑外人の任意団体「公益委員会」によって決議された「軽井沢避暑団」は、大正5年(1916)D.C.ライク、ダニエル・ノルマンや島田三郎ら内外人有志によって設立された。軽井沢で夏の間、避暑のために滞在する人々に対して、心身の鍛練向上と文化教養に寄与することを目的とした。
 尾崎行雄の「聴渓閑話」に「避暑団は最初西洋人のみでやっていたが、日本人も仲間に入るようになり、私なども仲間になっていた。会議は公会堂の庭の木の下へ各自が手近かな処から椅子を持ち出して来て開くのである。それがなかなか趣があって昔の会議もこんなではないかと思われる。西洋人が公共の事に熱心なのには実に感心である。私などは口ではずいぶんやかましく言う方であるが、実行となるととても西洋人のまねはできない。日本人は租税を一旦納めてしまえば、それがどう使われようと一向平気であるが、西洋人はそうではない。軽井沢の避暑団でも”租税が、夏来るものに少しも関係ない事に多く使われるのは不条理である。なるべく夏来るもののためにもなるように使ってもらいたい”といって、しばしば当局者に警告している。西洋人の中には、公共の世話をする事を無上の道楽にしている人がいる。軽井沢の南東部には西洋人ばかりの一角がある。そこは道路でも下水道でも手入れがよく行き届いているが、ひとりの老人が別荘から金を出してもらって人夫を雇い自分が監督して手入れや世話をしているという。(中略)
 田舎にいる宣教師などは、平素交際もなくまず本を読むくらいが精神的栄養であるが、軽井沢にはインド以東から三千人も集まって来るのだから、いろいろの精神的栄養を取ることができる。学者もあれば音楽家も来たり美術家も来るというように、いろいろの種類の人が来て、それがみんな知識でも技芸でも自分の持っているものは何でも快く出し合ってお互いに利用する。幹事が計画を立てて講演や演奏を公会堂でやるのであるが、盛んな時にはほとんど毎日昼夜二回ずつやっている。西洋人は避暑をしながら、それを有益に利用する。日本人も数年前、三井の連中などの寄附で公会堂を造ったが、どうもあまりこれを利用しない。」(町誌軽井沢 名士より送られた感想)と当時の様子について述べられている。
 軽井沢避暑団は会長に推されて「軽井沢の村長さん」と呼ばれていたダニエル・ノルマンを中心に、新しい道路敷設に、病院の設立に、そのほか避暑客の頼みごとと、町役場や警察、土地の古老たちとの交渉までも行った。ノルマン夫人は当時の様子を『婦人の友』に書いている。
「軽井沢はわたくしどもにとっては第二の故郷であります。<軽井沢>―という一言だけ聞いても、わたくしの胸には数えきれないほど多くの思い出がわきあがってまいります。それは真夏の季節ともなれば盛んな国際都市が出現いたします。また数々の国際会議のセンターになります。無数の人々が殺到するいくつかのテニスコート、毎週開かれるコンサート、よく準備された盛んな礼拝での感銘深い聖歌隊や名説教等々かぞえきれないものがあります」。
 大正11年(1922)、日本人有志によって「軽井沢集会堂」が建設された。この集会場を使って後援会・音楽会・映画界・展覧会が開かれて会員に公開されたほか、軽井沢地方の博物標本を数多く集収して展示したり、日本に関する多くの図書も備えて、研究や日本文化の紹介につとめた。
 前から避暑客たちが心配していた病気に対しては直営の国際診療所が発足した。大正14年(1925)、軽井沢避暑団経営の軽井沢病院がマンローを院長に迎えて開業し、7月から9月までの診療に当たった(10月から翌年6月まではマンローが借り受け診察する)。
 避暑団ではマンロー博士に頼んで「ブヨ」の撲滅についての研究をしたり、日本人の増加によって上がりだした品物の値段を調べて売値を制限するなど生活全般にわたって活動した。日曜日には「休業」という札をかけさせたので街は静かになった。テニスコートも閉鎖され、協会から讃美歌が流れ、祈祷が行われた。日本人の中にも、ネクタイをつけた男の子、きれいなサンデードレスを着た女の子が教会へ行って讃美歌を聴く姿が見られるようになった。
 別荘客と西洋人との交わりは樅の木の下でのティーパーティや西洋風の遊戯を通して行われた。野球などのアメリカのスポーツも入ってきた。
 佐藤不二男は『軽井沢物語』の中で、
「軽井沢避暑団(KSRA-Karuizawa Summer Residents Association)は、外国人有志の不動産の寄附によるもので、いわば彼らの自治行政であった。その会員の資格としては、ハイ・モラル・キャラクター(品行方正)が条件であった。
 大自然を仲介とした人と人との交わりをモットーとし、町や県当局に対して適切なサゼッションをした。まず、軽井沢では『酒・女・博打』の機関を禁止するっことを提案した。この提案はすぐに承認され、軽井沢から『飲む・打つ・買う』の三悪習を永遠に追放する不文律ができたのである。こうして、軽井沢憲法が生まれた。今から考えてみると、実に偉大な貢献であった。しかも、その多くは宣教師で、その信条や収入から考えて、サマー・コテージにふさわしい木造・板葺屋根の清楚な建物で、生活もいたって簡素であった。
 日常の生活は、礼拝、思索、読書、散歩、テニス、時にはハイキングやピクニック、馬の遠乗りなどのスポーツ、午後の清談、晩さん後の団らん、ときどきもよおす避暑団の講演会や音楽会などで、金はかからないがいかにも楽しい節度ある健康そのものの生活であった。人生の慰楽を人やもlのに求めず、自然とスポーツに求める―というのが、かれらのつくりあげた『軽井沢雰囲気』であった。」と書いている。


2008/10/29 水曜日 at 10:46:30

追加経済対策の首相指示の一つに住宅ローン減税を過去最大に、はこちらで触れたところです。

今朝の報道によれば、税額控除の上限を最大600万円程度、対象となる借入金の上限を5千万~6千万円で調整する方針であり、控除期間や控除率は検討中だが、それぞれ10年、1%前後が有力。今回の減税は景気テコ入れのため制度の期限を2~3年とする公算が大きい。とありました。

サブプライムローン問題に端を発した世界同時金融危機はにわかに鎮まりそうになく、日を追うごとに事態が一層悪化していくようで不気味な感じさえします。100年に一度の危機などと言われています。全世界の誰もが経験したことのない事態が進行中ということではないでしょうか。経済金融理論なり、マーケット指標なり、過去の経験値なりが役に立たなくなってしまっているのです。

景気指標は先行き暗雲が立ち込め実態経済への波及が不可避であるシグナルを発しています。グローバルに、ハイスピードで、同時に、そして例外なく(先進国、新興国の区別なく)、がキーワードのグローバル・ファイナンシャル・クライシスです。

麻生首相が追加経済対策を指示してから未だほんの1週間程度しか経過していませんが、この間でさえ我が国の経済金融環境は大きく変化しています。その変化のスピードと打ち出される対策を見ると(過去の経験をベースに見ていると)尋常ではありません。たとえば、金融機能強化法の公的資金枠2兆円を10兆円に拡大するという政策一つにしてもあっという間の出来事になりそうです。

冒頭のように、住宅ローン減税の「最大に」の姿が見えてきましたが、本当に必要なのは国民が住宅を取得しようという将来に明るい展望が描け、前向きの気持ちがもてる過去にとらわれない非常事態宣言的政策支援くらいのことが打ち出されないと効果が期待できないのではないでしょうか。足元の経済は、わが国も世界同時金融危機の影響の中にあることが明確です。輸出主導型産業界へは急激な円高なども加わって先行き更なる減速化は否めません。企業業績の悪化、雇用情勢のさらなる悪化、賃金抑制など住宅取得希望者にとってはネガティブ要素ばかり。住宅を買おうという気がなかなかわいてこないように思えてなりません。


2008/10/27 月曜日 at 9:09:16
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 明治37年(1904)から沓掛の北方浅間山に向かって湯川の上流2㎞の地点で、水車を利用して製材工場を営んでいた星野国次(初代嘉助)は、明治43年(1910)の大水害を契機として、赤岩鉱泉・塩坪の湯を荻原寛治より買い取って営業を始めた。
 彼は明治から大正に入って、軽井沢がようやく避暑地として内外の注目を集め始めたのをみて、温泉開発に着手した。大正2年神社風の浴場を建てるとともに、星野温泉と名を改めた。熱い温泉を求めて、塩坪を中心に上総掘りという手掘りから、ロービング式掘さく機まで使って掘り、3年の春、浴場の完成に続いて旅館営業を開始した。

 大正5年(1916)には池の端別館のほか、二号、五号別荘、7年にも七・八・十号と三つの別荘を建て、別荘と温泉を組み合わせた経営を行った。
 この間、大正4年には鎌倉から円覚寺管長長釈宗演禅師を招き、同6年には天狗タバコの創始者、岩谷松平が一族郎党を引き連れて避暑がてら一夏をすごすなどにぎわいをみせはじめた。
 大正9年(1920)の夏、にせ赤い鳥事件が縁となって、鈴木三重吉が家族と共に星野温泉を訪れた。翌10年8月、「赤い鳥」が呼びかけ、全国から140名を集めて「芸術自由教育講習会」が盛大に開かれた。講師として、我が国の農民美術運動の創始者山本鼎(大正7年にアトリエ建設)をはじめ、鈴木三重吉・北原白秋・沖野岩三郎などに恩を代表する作家のほか、宗教家であり学者でもある内村鑑三の課外講演会も行われた。この講習会は教育界に大きな影響を与えたばかりでなく、そのころから与謝野寛・晶子夫妻、若山牧水・喜志子夫妻など多くの作家、詩人が訪れるようになり、星野温泉周辺の別荘地化が進むことになった。

 星野温泉の前身である赤岩鉱泉は、アルカリ性の温泉で古くから草津温泉の強酸性の湯治でただれた皮膚をなおすために親しまれていたが、星野嘉助によって新しく温泉としてよみがえり、その周辺一帯は新しい別荘地となっていった。大正以後の別荘地の大部分が長野県外の資本によって開発されていった中で、星野別荘地は佐久の製糸資本が投入されて開発されたことは注目に値する。


2008/10/24 金曜日 at 13:22:44
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 大正9年3月、堤康次郎によって箱根土地株式会社(資本金2千万円)が設立され、軽井沢は出張所となった。同社は、千ヶ滝ばかりでなく箱根方面に大きく進出することになった。軽井沢の北、群馬県万座の温泉・湯の花・硫黄の採取権を取得し、軽井沢まで温泉を引こうとした。この計画は実現しなかったが、万座温泉への途中にある天明3年に流出した鬼押出しの奇岩に着目し、前橋営林署へ天然物を保護する意味の申請書を出し、六里ヶ原一帯を買収した。
 千ヶ滝地帯には、夏になると大型の巡回バスを運行して別荘客の便を図った。
 大正10年に入ると、千ヶ滝に観翠楼を建築して営業を始め、湯川発電所の電気が別荘地に点灯されるなど整備された。千ヶ滝から峰の茶屋までの道路も開通した。
 箱根土地株式会社は、軽井沢南部の発地の区有地421町歩の買収を行い(大平地区100町歩は返還)、分譲地造成を進め、12年には、南軽井沢で土地付き別荘の分譲を始めた。古くから地蔵ヶ原と呼ばれ、碓氷峠を越えるための女街道を通るだけの草原と湿地ばかりの土地に開発がおこなわれることになった。広大な土地を利用して、南軽井沢競馬場の建設に続いて、大正14年には南軽井沢飛行場が完成するなど南軽井沢一帯は大変貌を始めた。
 大正12年、千ヶ滝地区上部の見晴らしの良い土地に、木造3階建て(建坪550坪)の近代的な軽井沢グリーンホテルが営業を開始、千ヶ滝事務所から四間道路を開さくした。別荘地の周辺部には、100坪の土地にかやぶきの別荘をたて、500円という低価で分譲を始めた。翌13年には、天然氷の採氷も始めた。また千ヶ滝学院を開設し、沖野岩三郎を園長に迎えて、別荘に滞在する子弟に勉学をすすめ、各種の教育を行った。
 道路建設・バスの運行・電気・水道施設・マーケット・共同浴場と秘書生活に必要な条件が整うと、旧軽井沢周辺の外国人によって開発された別荘地帯とは異なった、新しい階層のための別荘地が軽井沢町全域に広がるようになった。