日経新聞月曜日5面オピニオンページの「インタビュー領空侵犯」が好きだ。共感できる発言に出合うと思わず切り抜いてストックしている。以前にもここで取り上げている。
本日付同欄は、片山善博さん。キャリア官僚→鳥取県知事→慶応義塾大学教授の経歴の持ち主。ご存じ方(TVなどで見たことがある)は多いのではないかと思う。最近では、鳩山政権の目玉政策の一つである国家戦略室に「予算編成のあり方検討委員会」を設置する方針があるが、そのメンバーの一人に民間からの起用(純粋民間人ではないが)という趣旨もあってか同氏が起用されるとの報道がなされているが。
毎週楽しみにしているこのインタビュー領空侵犯だが、久しぶりに共感でき(私の気持ちを)代弁して頂いた、との印象を強く持ったので、少々長くなるが記事をそのまま引用させて頂きたいと思う。
―鳩山内閣は事務次官会議を廃止しましたが、事務次官ポストそのものをなくせと主張しているそうですね。
「今までの大臣は省庁のトップではありませんでした。事務次官が実質的な責任を取っていて、OBになっても影響力を行使しています。大臣などの政治家が責任をとり、幹部職員の人事もやるようになれば、官僚組織の頂点である事務次官はいりません」
「人事もやりやすくなります。今は基本的に局長以下の職員は次官よりも年次が下でなければいけない。優秀な局長でも長くやれなくて、次官が代わると辞めなければならない。事務次官というポストがあるから年功序列の硬直的な人事になるのです」
―「官僚たちの夏」ではありませんが、入省すると次官を目指して出世競争するのが霞が関のようですが。
「局長を目指せばいいじゃないですか。税や国際金融等専門分野でそれぞれトップになればいい。現在の富士山型の組織を連峰型に変えるのです。出世するだけが人生ではないし、その方が職員も幸せだと思います。そして、本当に役所のトップになりたいなら政治家になって大臣を目指せばいい。優秀な人なら政治任用で副大臣や政務官になれるかもしれません」
「今の事務次官は省庁の権益の守護者にすぎません。国民の利益に反することばかりしている。他の幹部職員も専門知識など持っていません。得意なのは根回しと場つなぎぐらいではないですか」
―ピラミッド型組織を改めれば天下りもいらない。
「優秀な人は定年まで勤めてもいいし、大学で研究者になってもいい。ただし、ピラミッド型なので途中で肩たたきをしなければならず、受け皿として天下りが必要だ、とう省庁の言い分は半分うそです。次官が一番楽なおいしいポストに天下っているのです」
「そもそも、天下り先を作ったとか、省庁の権益を増やしたかどうかで評価するのがおかしい。これは税金の無駄遣いだ、などど言ったらその職員にはバツがつきます。上司がそうだから若い職員も同じ発想になる」
―病根は深そうです。
「大臣が幹部人事を直接やるようになればすぐに変わります。ただし、国民のためになる組織にするには採用面も考えないといけません。国家公務員は未だに成績至上主義です。今の職員は社会正義や弱い立場の人への思いやりに欠けている。志や正義感、気迫などにあふれた若い人をもっと採用してほしいと思います」
インタビューの聞き手谷編集委員は:-
民間はもちろん、自治体と比べても中央省庁という組織は確かに硬直的だ。その原因の一端は大臣をタライ回しする政治の側にあった。政治が変わろうとしているのだから省庁も変わる好機だろう。エリート意識と一体となった過剰な責任感を見直すことが第一歩になる。「省益」という言葉ほどむなしいものはない。
と欄外で触れています。
中央省庁に代表される官の世界については、インタビューの中で相当触れていいただいている。民の世界は問題ないのかというと、決して無縁ではないというのが私の見立てです。昨今世間を騒がせている企業群はもちろん、表面化してはいない民でも同様の病根を抱えているのではないか、私はそう思って社会を見ています。
50年も続く哲学堂公園での朝のラジオ体操に初めて参加してきました。
コミュニティ誌「おちあい」で知った毎朝6時半から同公園広場で行われているのです。新宿区はもちろんのこと中野区や豊島区からも参加しているそうです。参加者数はザッと百名は超えます。見た感じ私が一番若い層の一人で、圧倒的に人生経験豊かな年齢層の方々中心です。
朝型人間の私は、軽井沢ではラジオ体操を日課にしています。新宿では控えていましたが、今回ラジオ体操が加わったことで朝の過ごし方メニューが増えました。
ラジオ体操から連想することと言えば・・・・?
私は、子供時代の夏休みです。ラジオ体操カードを首からぶら下げて、毎朝子供会のラジオ体操に参加したことが想い出されます。終わるとカードに参加した印を貰って、たまるのを楽しんだものです。
ところで、ラジオ体操っていつから始まったかご存知ですか?
昨年11月1日に開始80周年を迎えたのですから、1928年11月放送開始というわけです。それから遡ること3年前、1925年アメリカのメトロポリタン生命保険会社が健康増進・衛生思想の啓蒙を図る目的で考案した体操がベースになっているようです。保険事業視察に行った当時の逓信省(郵政省→現総務省)簡易保険局担当者がこれを知り、日本でも始めようと提案したことが始まりとあります(Wikipedia)。
途中、中断時期があったり、体操も変遷したり(現在は3代目)、と歴史を経て現在の形になったのは1951年からです。私がラジオ体操を始めた時は、既に3代目になっていたのです。
今までは何気なくやっていたラジオ体操ですが、これからは歴史を感じつつ生活のリズム感を保つべく続けていこうと思います。
表記事情を概観してみました。
先ず、需要(建築着工戸数)は、どの程度あるのかを見ると(国土交通省統計)、全国47都道府県中41番目の総戸数実績です(20年度総戸数=持家+貸家+給与住宅+分譲)。実数にして5,379戸=持家3,188+貸家1,649+分譲501+給与住宅41、全体の59%が持家です。
住宅ローン供給サイドの業界構造は、下表のとおりです。

出所サイト非掲載の2信組(山梨県民、都留の両信組)を含めても通計40行(社)でうち22社がフラット35専業のモーゲージバンク(MB)です。近隣長野県との比較では、同県43行(社)で山梨県が5行(社)少ない。MBは長野県が20なので山梨県が2社(旭化成モーゲージと年金住宅福祉協会)多い状況。長野県より少ないのは、地銀がー2行、第二地銀がー1行、信金がー4行です(他に山梨は外資系が一行ある)。
この7月の住宅ローン金利は、下表のとおりです。

金利で競争力を発揮しているのはネット系と労金です。長野県のように地元金融機関の名前が出てきません。ちょっと残念な気がします。
JR山手線と京浜東北線の分岐駅である田端駅。その駅舎が新しくなったことを迂闊にも知りませんでした(現役時代は近くに取引先があって結構利用していたのですが)。時間の経過が確実に進んでいるのですね。
その駅舎の中に例によってアトレができており、テナントの一つにTSUTAYAアトレヴィ田端店があります。そのTSUTAYA、経営しているのは株式会社アンフォルマ。そこの社長のSさんは、昔ディズニーランド前に住んでいた時のまさしくお隣さんでした。
一カ月ほど前、丸善書店に自著「軽井沢暮らしを始める住宅ローンアドバイス―軽井沢にファーストハウス 都心にセカンドハウス」を置いていただくべくお願いに行ったのですが、その地下鉄の車中でのこと、全く偶然にSさんにバッタリと再会したのです。お互いにビックリ!!久しぶりの再会を楽しみました。スタバでほんの数十分でしたが。その時何気なく(その後の展開が開けるとは想像しようもなく)、自著出版の話をし、一冊記念に手渡したのです。
一ヶ月後、Sさんから電話があり自社で本を置いてあげるよ、との思いがけない申し出を受けた次第です。先ずは試験的に(同社で一番成長著しい注目店である)田端駅店に置いてみるとなった次第です。
行ってみました。ホームから店舗が見える建物構造は、とてもインパクトのある店舗となっていて、週日の昼前後というのに来店客が結構多かったのには、少々びっくりしました。なおびっくりしたのは、本を置いてから一週間足らずなのに1冊ですが売れていました。ありがとうございます。
軽井沢ニュース7月号(7月10日発行予定)に掲載してもらうことにします。
Sさん、ご配慮ありがとうございました。
そして、さらにお客様の目に触れて、一人でも多くの方に読んでいただけるともっと嬉しいですね。
拙著「軽井沢暮らしを始める住宅ローンアドバイス―軽井沢にファーストハウス 都心にセカンドハウス」が、軽井沢ニュース舎からKaruizawa Booksの2冊目として刊行(定価1000円・税別)されました。

ここまで辿り着けたのは関係者の支えがあればこそ。改めて感謝です。
さて、肝心の本の内容ですが、定年退職後1年半の間に、当HPの軽井沢日記、並びに法人会員制住宅ローンソリューションズの主宰の独り言に登載した、住宅ローン関係の記事を中心に、一部加筆してまとめてみました。
自著本の出版は小生には初めてのこと。右往左往しながらでしたが、よくもここまで形になったものだと、感心しきりです。
よろしかったら手にとって目を通していただけると嬉しですね。感想もお聞かせ頂きたいものです。
発行元は書籍流通ルートに乗せない営業方針なので、差し当たり軽井沢町内の書店中心での販売スタートとなります。私としては町周辺並びに都内書店へも漸次おいていただきたいと思っており、少し動いてみたいと思っております(早速、町内の企業から30冊のまとまったご注文を頂きました)。
書籍送料や代金振り込み料など関連コストがかかってしまいますが、これをご了解いただけるのであれば喜んでお送りいたします。いろいろ検討しましたが、現時点で関連コストの最も少ない方法は、定額小為替(1000円)をお使いいただく方法のようです。ご希望の方、メールにてご連絡をお願いします。
ずっと探していたあるものが思いがけず出てきました。「廃棄してしまっんだ」と既にあきらめていたものです。先日、中井に引っ越してきてから初めて(10年ぶりということになります)地下室のトランクルームを止むにやまれず整理整頓することになりました。この10年間というもの、娘たちのお雛様セットの大小数個の箱をはじめ旅行用カバン、ゴルフバック、季節用のディスプレイ額やリースなど何かと便利に「地下にしまっておくよ」と入れ放題だったトランクルームもいよいよスペースがなくなり、全部棚卸して不要物は廃棄するなど空きスペース作りをしたのです。
本棚を整理すべく袋に入った書類の中にそのあるものはありました。あるものとは、30年前に私が書いた「これからの時代をどう生き抜くか―中小企業の倒産回避策」なる小論が掲載されたニッセイ経営情報1978年6月号*です。何度かの引っ越しの度に私の宝物的に連れてきたもの。小論は、僅か原稿用紙8枚ほどのものですが、何故か私の思い入れが強く、機会あるたびにここで述べたことがその後の私の判断の基軸になっていたのです。拙いものですが、以下原文をそのまま紹介させていただきます。データなど当時のまま古いが、エッセンスは少しも変わっていないと思っています。(今、読み返すと若気の至り的な部分があり恥ずかしくなりますが、ある意味時効でもあろうかと。)
*ニッセイ経営情報は、当時、日本生命が中小企業向けに発行していた小冊子のツールで12~13万部を全国に配布していた。
◆◆これからの時代をどう生き抜くか―中小企業の倒産回避策◆◆
昨年は、1日61社、100社に1社が倒産
昨S52年は、18,471社が倒産。S51年の15,641社を抜いて史上最悪を記録した。1日当たり(祝休日を除く)61社が倒産したことになる。これは負債総額1千万円以上のみの倒産件数なので、それ以下で倒産していったものも含めると、実際にはもっと多くの企業が倒産していったことになる。昨年の法人企業数は141万社程。従って、企業の倒産率は1.31%である。100社に1社、1万社に131社が負債総額1千万円以上を抱えて倒産していったのである。
金融緩和期でも倒産多発
本年3月、公定歩合が0.75%引き下げられ、年3.5%となった。これはわが国の戦後公定歩合史上最低の水準であり、”超”低金利時代に入ったことを意味している。S50年4月以降連続8回、合計5.5%引き下げられてきた金融”超”緩和期に現在あるといえよう。
従来は、金融引き締め期に倒産が増加し、金融緩和期に減少するといった倒産発生パターンであった。が、ここ2~3年の倒産多発現象は、金融緩和期におけるもの。従来の傾向と明らかに異なってきている点に留意する必要があろう。
倒産原因―本当は何か
昨年の倒産原因別内訳は、下表のとおりで、販売不振、累積赤字・売掛金回収難などいわゆる不況型原因が53.9%(S51年51.3%)。やはり不況が原因で倒産したと見られているし、思われている。
ここに面白い調査結果がある。某新聞社が倒産会社570社についてその原因を当の経営者自身とその企業に貸し付けていた金融機関に問い合わせたものである(倒産原因を複数回答しており総計100%にはならない)。
それによると、経営者側は、倒産原因の多くを不景気、資金不足、競争の激化といった言わば企業外的要因を挙げている。一方、金融機関側は、その多くを経営の非能率、経営者の不正直・不誠実といった企業内的要因によると指摘している。債権者、債務者といった立場の相違、観点の相違でもあろうが、考えさせられる問題である。
企業は、ヒト・モノ・カネから成っているのは本当か
企業とは、何人かの”ヒト”が集まって、”カネ”を持ち寄り、”モノ”を製造して販売する有機的組織体であると言われているのは、定説のようだ(もっとも最近はこの3要素に”環境”を加えた4要素が出てきているが・・・)。
ところで、このようには考えられないだろうか?すなわち、企業がどこから、どのように、いくらの”カネ”を集め、それを元手に何”モノ”を、どのくらい、どのようにしてつくり、それをどのような方法(ルート)で売り、利潤を最大限に得るようにするかを決めるのは、誰でもない”ヒト”(狭義には経営者のみ、広義には従業員も含む)そのものである、という様にである。
「経営は人なり」は真理
「経営は人なり」-企業は、経営権を握る経営者次第で大きく成長できるし、又衰退して倒産していくこともある。経営者の資質は、次の二つに分けて考えられないだろうか。一つは人格そのもの、もう一つは経営意欲をも含む経営能力である。経営者の人格が低くては、論外である。仮に人格が普通以上でも、経営意欲が足りないとか、意欲はあっても経営的能力いわゆる経営手腕がないというのもよいこととは思わない。
人格・意欲・手腕―これらすべてが経営者には必要であり、又要求されている。その一つが、まして二つが欠けていようものならその企業の、経営の前途は暗いと言わざるを得ない。これらが揃っていることは、経営者個人の信用度が高まるばかりでなく、企業内部においては意思決定者と執行機関との結びつきの基礎となり、外部に対しては取引先や金融機関に対する信用につながると考える。また、識見を高め、経営手腕を発揮するためには常日頃からの絶えざる勉強が必要であり、これを怠ることは決して許されないものであろう。
要するに、経営者自らの姿勢が正しくあることが企業を守る大きな条件である。これが正しくないために企業を倒産に至らせた例は現実に数多くみられる。
倒産回避の戦略とは
企業にとっての”戦略”の必要性を説いた書物が数多く出版され、ブームの如き減少を呈しているのは最近の傾向である(もっとも、戦略の必要性が今特に叫ばなければならないことではなく、企業にとっては常に必要で当たり前のことと考えるが)。
もちろん、大企業同様中小企業にも「戦略」の必要性は大いにある。そして、中小企業にとっての戦略とは、実は「経営者」そのものであると考える。
中小企業の経営者にはいわゆるワンマンが多い。しかし、ワンマン経営(者)が悪いとは決して言えない。企業の成長・発展段階をリスキーな創始期、成長期、安定した成熟期に分類するならば、成長期まではむしろワンマン経営の方が戦略的に良い場合が多い。ただ注意しなければならないのは、ワンマンの眼は主観的になり易く、ワンマンの能力には自ずから限界があるということである。
そこでワンマン経営のメリットを生かし、企業の永続的成長・発展を図るために、
『経営を冷静に見る眼をもつように努める』 『ブレインの育成・強化を図るように努める』
ことが肝要であると思われる。企業内部でのブレイン育成が困難であれば、例えばメイン銀行の経営相談所などの活用が考えられる。このようなワンマン経営者であれば、金融機関の信用と支援を受けるであろう。要は、意識と姿勢の問題である。
この2点が忠実に誠意を持って実施されるならば、先のような調査結果は出なくなるだろうし、ましってやそのような調査を受ける当事者に加わることもなかろうと思うのだが・・・。
大正期には文人も多く訪れるようになった。明治の末から、若山牧水や島崎藤村、伊藤左千夫、正宗白鳥が軽井沢に立ち寄っている。大正2年5月、中勘助が追分に遊び、日記体で綴った「裾野」に浅間山麓の情景を描き、同9年、有島武郎が軽井沢での生活を描いた随筆紀行「信濃日記」を『新家庭』に発表、翌10年北原白秋が「落葉松」の詩を発表するなど、軽井沢が世に紹介されるようになった。12年、有島武郎が三笠の別荘で情死する事件は、軽井沢の名を全国的に知らせた。
大正13年、芥川龍之介は、室生犀星や堀辰雄とともに、旧道つるや旅館に滞在、翌年も訪れ、7月22日にはがきに「今日の午後1時頃この宿につきました。ここは夕方73、4度、雨の日は64、5度になるさうです。まだちょっと落ちつきません。町には西洋人が多い故、仲々ハイカラです。」と書いている。翌年も堀辰雄は軽井沢に滞在し、芥川龍之介のお伴をして、峠や追分、沓掛などの古駅をみてまわった。その後のいくつかの作品の舞台として軽井沢が登場し、文学の世界を通じて軽井沢が広く紹介されることになった。
別荘地としての価値は上がり、土地や建物が安く手に入った明治の中ごろとは様子が一変した。日本人上流階級の避暑生活は宣教師たちには華美に見えるようになった。 大正10年、軽井沢町では、別荘所有不在者税を徴収することになり、外国人の反対の中で実施された。
こうした中で、外国人避暑客の中には、野尻湖の南岸、神山に外国人のみの別荘地を作る動きが出てきた。美しい湖のほとりに軽井沢の4分の1という地価の安さ(1坪1.11円)日本人を入れない外国人だけの別荘地ということで、軽井沢から移り住む人もいた。
’Nojiri Lake Association 1967 Year BookのHistorical Noteの項に
「After describing the initial visit Nojiri of a small group of “rebels” agaist the “Karuizawa pink teas,starched collars and seven conferences a week “Mr Mckenzie descrifed the early development of a NLA」
という一節がある。初期の開発者マッケンジーは、1923年に三代目の村長をした人であるが、”Karuizawa pink teas”(華美な雰囲気)と”Starched collars and seven conferences a week”(一週間に何回もの気取った社交的な会)をきらって野尻湖へ移ったと読み取ることができる。宣教師や大戦に負けたドイツ人たちは経済的理由が最も大きかった。NLAの設立に長野のノルマンが大きくかかわり、日本人を入れない外国人だけのコミュニティをつくっていった。
大正15年の7月の北信毎日新聞の”今の軽井沢”の一節に、
「お金のない人大きらい、といったブルジョア万能の土地となっていやしないか、貴族符号の如き特殊階級のみが楽しむこと許されているのではないか、資本家は、坪一銭以下の安価で土地を購入したけれど、今は一円以上でなければ売らないのである。貸別荘にしても、百円以上でなければ貸さないそうで、軽井沢に暑を避けようとすれば、月収千円以上もなければ到底できない相談である。」と書いているように、明治期と比べて、避暑生活に金がかかるようになってきた。
野沢原、千ヶ滝の大規模別荘地開発は、避暑のための別荘を日本の上流階級に普及させる素地をつくった。
大正元年(1912)には、193戸だった別荘は、14年には626戸と3倍以上になり、大正11年の71戸を最高に、年々数十戸の別荘が立てられるという増加を示した。
大正3年7月、新・旧軽井沢、沓掛、離山や別荘地の一部に長野電燈会社によって952燈の電燈がつき、福島安正(陸軍大将)が別荘を新築している。
翌4年には、草津軽便鉄道株式会社が、新軽井沢~小瀬温泉間に蒸気機関車で営業運転を始め、野沢原にも、大隈・徳川・細川家といった大型別荘が建築され、大正5年7月には尾崎行雄が南土取場に山荘(莫哀山荘)を建てた。
外国人の中でも、大正6年に、カナダ人R・M・アンドリウスが、一万五千坪の広い敷地に自家発電所をそなえて別荘を建て、鳥獣を飼育するなど、それまで見られなかった豪壮なものであった。
日本人の間でも、政界・財界をはじめ文化人など、上流階級による大型別荘が野沢原を中心に建てられるようになった。
大正8年、ゴルフ場建設の機運がもり上がり、翌9年、徳川慶久、田中寛、西巴清、ライフスナイダー外数名によって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は、大隈別荘付近の離山中腹、旧桂公別荘付近も候補に上がったが、野沢善次郎が提供することになった水源地付近に決まった。
敷地―6万坪、貸主―神田(金偏に、旁が雷、の文字)蔵、野沢善次郎、借主―徳川慶久、田中寛、立会人―加藤高明であった。地代は、最初の5年間は無料、つぎの5年間は年に1千円、さらにつぎの5年間は年に2千円の15ヵ年契約で会った。マニラのプログルファー、ニコルスを招いて、草ぼうぼうの荒地の現地踏査を行い、大体の設計を行った。
対象10年、サント・グリンの6ホールと野芝のフェアウエーができ上がり、11年夏には9ホールが完成した。
軽井沢ゴルフ倶楽部創立当時のメンバーをみると、会長徳川慶久、貴族13人、実業家25人、学者6人、外国人8人、その他30余名と政界、財界をはじめ文化人など、日本の上流階級が名を連ねている。
その後、グリーンを高麗芝に植え替え、摂政宮をお迎えするまでに整備が進み、クラブハウスが新築されて、軽井沢での第1号ゴルフ場は完成し、それまでの、テニスと野球に加えて、新しいスポーツの時代に入ることになった。
海外ロングステイ・国内デュアルライフフェア2008(主催:財団法人ロングステイ財団、日本経済新聞社 後援:経済産業省、国土交通省、総務省、農林水産省、日本旅行業協会)が東京ビッグサイトで開催されました。僅か一日だけの開催。いくつかのセミナーが予定されていて事前に希望者を募っていましたのでいくつか応募していたのですが、OKが出たのは一つだけ。それも午後4時からとセミナー時間帯の最終回のものという結果から、反響の大きさをある程度事前に感じてはいました。実際、会場を訪問してみて吃驚!!会場は、シニア層の二人連れを中心に、中には若い人もいましたが、大勢の人たちで混雑していました。狭い会場(ビッグサイト会議棟)ではありましたが、出展各ブースの椅子は質問者で埋まっていましたし、立って説明を聞く人もいて場内を歩くのも一苦労といった状況でした。
私は、国内デュアルライフの実践者の一人としてフェアは大いに関心あるテーマですし、住宅ローンアドバイザーとしての機能発揮のための情報収集も兼ねていました。が、会場の熱気の凄さに圧倒された感じでありました。改めて関心の高さを再認識した次第です。
別荘の庭で、子供たちのためのティー・パーティやゲームが行われ、苔の生えた樅の木の下でガーデン・パーティが開かれ、別荘へ来ている日本人ばかりでなく英米の子供たちも招かれた。
食事は、ベランダにつったドラを合図に、庭やコートにいる子供たちが集まって食べた。東京から連れてきた女中たちが、イギリス製の大きな鉄ストーブに薪をくべて、ビーフ・パイなどの西洋料理をつくった。軽井沢に来て食べる楽しみの一つはコーンだった。ふかしたての湯気の立っているコーンに、たっぷりバターを塗った。コーンの粒が舌の上ではじけると甘い汁が出る。
アイスクリームを自宅で作ることもあった。氷と塩をいっぱいつめた木製の樽のようなアイスクリーム機の手をグルグル回した。一時間ほどかけてやっとできたアイスクリームはまろやかなこくのある舌ざわりで、口いっぱいに幸福感がみなぎった。
そのころの軽井沢の遠乗りは自転車であった。私は赤い自転車を持っていて、別荘から下の町へ毎日相当なスピードで下りて行った。そのころは自動車は少なく、人も少なく、自転車であっちの別荘へ行ったり、こっちの別荘へ行ったりした。三、四人、あるいは五人、六人で自転車を乗り回すこと自体が結構面白かった。”学習院の男の方々の自転車競走”の話は、北白川宮佐和さまや細川護貞さんからもうかがった。
北白川宮、竹田宮、朝香宮の若いプリンスたち、近衛公爵、細川侯爵、酒井伯爵、柳沢伯爵方とジュニアたちが参加、親対息子のレースであった。
竹田宮は、日光に行っておられたが、軽井沢は遠出ができるし、乗馬、テニス、ゴルフその他のスポーツもできるというので、大正12年(1924)半田別荘を借り、のちに鹿島の森に別荘を建てられた。北白川宮も近藤別荘を借りておられ、大正15年に建った北白川別邸には、佐和さまのお母さまだけが逗留なさっていた。」
ここに(朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』)書かれている軽井沢での別荘での生活には黒田伯爵をはじめ、大正時代の上流階級の人々の名前が多く出てくる。当時、旧軽井沢や野沢原に別荘を持っていた人たちは、貴族や政治・経済界のトップに位置する人々とその家族であった。

