野沢原、千ヶ滝の大規模別荘地開発は、避暑のための別荘を日本の上流階級に普及させる素地をつくった。
大正元年(1912)には、193戸だった別荘は、14年には626戸と3倍以上になり、大正11年の71戸を最高に、年々数十戸の別荘が立てられるという増加を示した。
大正3年7月、新・旧軽井沢、沓掛、離山や別荘地の一部に長野電燈会社によって952燈の電燈がつき、福島安正(陸軍大将)が別荘を新築している。
翌4年には、草津軽便鉄道株式会社が、新軽井沢~小瀬温泉間に蒸気機関車で営業運転を始め、野沢原にも、大隈・徳川・細川家といった大型別荘が建築され、大正5年7月には尾崎行雄が南土取場に山荘(莫哀山荘)を建てた。
外国人の中でも、大正6年に、カナダ人R・M・アンドリウスが、一万五千坪の広い敷地に自家発電所をそなえて別荘を建て、鳥獣を飼育するなど、それまで見られなかった豪壮なものであった。
日本人の間でも、政界・財界をはじめ文化人など、上流階級による大型別荘が野沢原を中心に建てられるようになった。
大正8年、ゴルフ場建設の機運がもり上がり、翌9年、徳川慶久、田中寛、西巴清、ライフスナイダー外数名によって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は、大隈別荘付近の離山中腹、旧桂公別荘付近も候補に上がったが、野沢善次郎が提供することになった水源地付近に決まった。
敷地―6万坪、貸主―神田(金偏に、旁が雷、の文字)蔵、野沢善次郎、借主―徳川慶久、田中寛、立会人―加藤高明であった。地代は、最初の5年間は無料、つぎの5年間は年に1千円、さらにつぎの5年間は年に2千円の15ヵ年契約で会った。マニラのプログルファー、ニコルスを招いて、草ぼうぼうの荒地の現地踏査を行い、大体の設計を行った。
対象10年、サント・グリンの6ホールと野芝のフェアウエーができ上がり、11年夏には9ホールが完成した。
軽井沢ゴルフ倶楽部創立当時のメンバーをみると、会長徳川慶久、貴族13人、実業家25人、学者6人、外国人8人、その他30余名と政界、財界をはじめ文化人など、日本の上流階級が名を連ねている。
その後、グリーンを高麗芝に植え替え、摂政宮をお迎えするまでに整備が進み、クラブハウスが新築されて、軽井沢での第1号ゴルフ場は完成し、それまでの、テニスと野球に加えて、新しいスポーツの時代に入ることになった。
海外ロングステイ・国内デュアルライフフェア2008(主催:財団法人ロングステイ財団、日本経済新聞社 後援:経済産業省、国土交通省、総務省、農林水産省、日本旅行業協会)が東京ビッグサイトで開催されました。僅か一日だけの開催。いくつかのセミナーが予定されていて事前に希望者を募っていましたのでいくつか応募していたのですが、OKが出たのは一つだけ。それも午後4時からとセミナー時間帯の最終回のものという結果から、反響の大きさをある程度事前に感じてはいました。実際、会場を訪問してみて吃驚!!会場は、シニア層の二人連れを中心に、中には若い人もいましたが、大勢の人たちで混雑していました。狭い会場(ビッグサイト会議棟)ではありましたが、出展各ブースの椅子は質問者で埋まっていましたし、立って説明を聞く人もいて場内を歩くのも一苦労といった状況でした。
私は、国内デュアルライフの実践者の一人としてフェアは大いに関心あるテーマですし、住宅ローンアドバイザーとしての機能発揮のための情報収集も兼ねていました。が、会場の熱気の凄さに圧倒された感じでありました。改めて関心の高さを再認識した次第です。
別荘の庭で、子供たちのためのティー・パーティやゲームが行われ、苔の生えた樅の木の下でガーデン・パーティが開かれ、別荘へ来ている日本人ばかりでなく英米の子供たちも招かれた。
食事は、ベランダにつったドラを合図に、庭やコートにいる子供たちが集まって食べた。東京から連れてきた女中たちが、イギリス製の大きな鉄ストーブに薪をくべて、ビーフ・パイなどの西洋料理をつくった。軽井沢に来て食べる楽しみの一つはコーンだった。ふかしたての湯気の立っているコーンに、たっぷりバターを塗った。コーンの粒が舌の上ではじけると甘い汁が出る。
アイスクリームを自宅で作ることもあった。氷と塩をいっぱいつめた木製の樽のようなアイスクリーム機の手をグルグル回した。一時間ほどかけてやっとできたアイスクリームはまろやかなこくのある舌ざわりで、口いっぱいに幸福感がみなぎった。
そのころの軽井沢の遠乗りは自転車であった。私は赤い自転車を持っていて、別荘から下の町へ毎日相当なスピードで下りて行った。そのころは自動車は少なく、人も少なく、自転車であっちの別荘へ行ったり、こっちの別荘へ行ったりした。三、四人、あるいは五人、六人で自転車を乗り回すこと自体が結構面白かった。”学習院の男の方々の自転車競走”の話は、北白川宮佐和さまや細川護貞さんからもうかがった。
北白川宮、竹田宮、朝香宮の若いプリンスたち、近衛公爵、細川侯爵、酒井伯爵、柳沢伯爵方とジュニアたちが参加、親対息子のレースであった。
竹田宮は、日光に行っておられたが、軽井沢は遠出ができるし、乗馬、テニス、ゴルフその他のスポーツもできるというので、大正12年(1924)半田別荘を借り、のちに鹿島の森に別荘を建てられた。北白川宮も近藤別荘を借りておられ、大正15年に建った北白川別邸には、佐和さまのお母さまだけが逗留なさっていた。」
ここに(朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』)書かれている軽井沢での別荘での生活には黒田伯爵をはじめ、大正時代の上流階級の人々の名前が多く出てくる。当時、旧軽井沢や野沢原に別荘を持っていた人たちは、貴族や政治・経済界のトップに位置する人々とその家族であった。
朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』の大正期の軽井沢の頃には、日本人による軽井沢での避暑生活がよく描き出されているので、その内容を要約する。
「大正6年(1917)、朝吹家は、黒田清伯爵に母が『軽井沢はいい所ですよ。ぜひ行っていらっしゃい』と、すすめられ、小坂家の別荘を借りて夏を過ごしたことにはじまる。父は静かで簡素な軽井沢が気に入って『バーが一軒もなく、子供の教育によい。』といって別荘を買う気になり、カナダの宣教師からハウスナンバー815の別荘を大正9年に買う決心をしたという。
別荘は愛宕山に登るアタゴ・レーンの中途にある古い別荘地にあり、矢ヶ崎川の両側の土手には大きなモミやカエダ、白樺、栗の木などが互いに枝を重ね合わせて立っていた。夕方、山から下りてくる白い霧、カッコーの声、せせらぎの音、黒光りするカブトムシ、大きな蛾、白い水玉の紙切り虫、杉苔の林、ヤニの青臭い匂い、激しい雷雨、ヤマカガシ、アオダイショウなどの蛇、セキレイ、キツツキ、リス、キジの鳥にいたるまで、自然は豊富で変化に富んでいた。
白い霧は煙のように庭をおおい、テニスコートに侵入し、ネットや赤いダリヤが白いベールに包まれる。真昼の高原は強い太陽の光が両腕の肌をこがし、白色の黄昏は住む世界を別世界に変える神秘さをもっていた。
水もおいしかった。別荘の敷地内に流れている小川から汲み上げた、冷たくて澄んだ山の水だった。水汲みばあさんと呼ばれた女の人たちが、天秤棒の前後に桶をつるし、小高い坂道を登って別荘に水を運び上げた。(桶一杯八銭か十銭)、別荘番もよく水を汲んで五右衛門風呂と台所の大きなかめに水を張った。
別荘は二階建てベランダつきの洋風建築でえんじ色のベンガラで塗った簡素な木造であった。二階に寝室が四つあり、階下に食堂、暖炉付きの居間、そして女中部屋があった。
大正の初めまでは石油ランプだったが、私費で電線を引いた。電燈の笠は手作りの目の粗い竹かごを逆さにつるしたような形で、内側に薄い羽二重が裏うちしてあり、縁にぐるっとリリアンの房が垂れていた。
家具は桜の花などの図柄の特産の軽井沢彫りの本棚や違い棚、テーブル、化粧台が置かれ、緑色に塗ったモダンな籐椅子が置かれていた。
ベッドは黒塗りに金色の真鍮の球の飾りがついたイギリス製のもの、日本製の木作りでバネのかわりに太い麻縄を張ったものが使われた。その上に木綿の蒲団が敷いてあった。
5,6歳の頃の私は、山に登ったり、ピクニックに行ったり、赤い自転車に乗ってと遠出をしたりした。兄たちと庭の樅の木の枝で小屋を作ったり、ロビン・フッドごっこをしたりして飛び回った。矢ヶ崎川の川べりに下りて、裸足になり、重い石を動かして防波堤を作ることもあった。洋服の裾が水でぬれないように、スカートをブルマーズにたくしこんで水の中を歩いた。こういう土木工事は軽井沢でなければできない遊びで、私たちは熱中したが、都会の子どもにとって新鮮な興奮であった。
大正2年(1913)避暑外人の任意団体「公益委員会」によって決議された「軽井沢避暑団」は、大正5年(1916)D.C.ライク、ダニエル・ノルマンや島田三郎ら内外人有志によって設立された。軽井沢で夏の間、避暑のために滞在する人々に対して、心身の鍛練向上と文化教養に寄与することを目的とした。
尾崎行雄の「聴渓閑話」に「避暑団は最初西洋人のみでやっていたが、日本人も仲間に入るようになり、私なども仲間になっていた。会議は公会堂の庭の木の下へ各自が手近かな処から椅子を持ち出して来て開くのである。それがなかなか趣があって昔の会議もこんなではないかと思われる。西洋人が公共の事に熱心なのには実に感心である。私などは口ではずいぶんやかましく言う方であるが、実行となるととても西洋人のまねはできない。日本人は租税を一旦納めてしまえば、それがどう使われようと一向平気であるが、西洋人はそうではない。軽井沢の避暑団でも”租税が、夏来るものに少しも関係ない事に多く使われるのは不条理である。なるべく夏来るもののためにもなるように使ってもらいたい”といって、しばしば当局者に警告している。西洋人の中には、公共の世話をする事を無上の道楽にしている人がいる。軽井沢の南東部には西洋人ばかりの一角がある。そこは道路でも下水道でも手入れがよく行き届いているが、ひとりの老人が別荘から金を出してもらって人夫を雇い自分が監督して手入れや世話をしているという。(中略)
田舎にいる宣教師などは、平素交際もなくまず本を読むくらいが精神的栄養であるが、軽井沢にはインド以東から三千人も集まって来るのだから、いろいろの精神的栄養を取ることができる。学者もあれば音楽家も来たり美術家も来るというように、いろいろの種類の人が来て、それがみんな知識でも技芸でも自分の持っているものは何でも快く出し合ってお互いに利用する。幹事が計画を立てて講演や演奏を公会堂でやるのであるが、盛んな時にはほとんど毎日昼夜二回ずつやっている。西洋人は避暑をしながら、それを有益に利用する。日本人も数年前、三井の連中などの寄附で公会堂を造ったが、どうもあまりこれを利用しない。」(町誌軽井沢 名士より送られた感想)と当時の様子について述べられている。 軽井沢避暑団は会長に推されて「軽井沢の村長さん」と呼ばれていたダニエル・ノルマンを中心に、新しい道路敷設に、病院の設立に、そのほか避暑客の頼みごとと、町役場や警察、土地の古老たちとの交渉までも行った。ノルマン夫人は当時の様子を『婦人の友』に書いている。
「軽井沢はわたくしどもにとっては第二の故郷であります。<軽井沢>―という一言だけ聞いても、わたくしの胸には数えきれないほど多くの思い出がわきあがってまいります。それは真夏の季節ともなれば盛んな国際都市が出現いたします。また数々の国際会議のセンターになります。無数の人々が殺到するいくつかのテニスコート、毎週開かれるコンサート、よく準備された盛んな礼拝での感銘深い聖歌隊や名説教等々かぞえきれないものがあります」。
大正11年(1922)、日本人有志によって「軽井沢集会堂」が建設された。この集会場を使って後援会・音楽会・映画界・展覧会が開かれて会員に公開されたほか、軽井沢地方の博物標本を数多く集収して展示したり、日本に関する多くの図書も備えて、研究や日本文化の紹介につとめた。
前から避暑客たちが心配していた病気に対しては直営の国際診療所が発足した。大正14年(1925)、軽井沢避暑団経営の軽井沢病院がマンローを院長に迎えて開業し、7月から9月までの診療に当たった(10月から翌年6月まではマンローが借り受け診察する)。
避暑団ではマンロー博士に頼んで「ブヨ」の撲滅についての研究をしたり、日本人の増加によって上がりだした品物の値段を調べて売値を制限するなど生活全般にわたって活動した。日曜日には「休業」という札をかけさせたので街は静かになった。テニスコートも閉鎖され、協会から讃美歌が流れ、祈祷が行われた。日本人の中にも、ネクタイをつけた男の子、きれいなサンデードレスを着た女の子が教会へ行って讃美歌を聴く姿が見られるようになった。
別荘客と西洋人との交わりは樅の木の下でのティーパーティや西洋風の遊戯を通して行われた。野球などのアメリカのスポーツも入ってきた。
佐藤不二男は『軽井沢物語』の中で、
「軽井沢避暑団(KSRA-Karuizawa Summer Residents Association)は、外国人有志の不動産の寄附によるもので、いわば彼らの自治行政であった。その会員の資格としては、ハイ・モラル・キャラクター(品行方正)が条件であった。
大自然を仲介とした人と人との交わりをモットーとし、町や県当局に対して適切なサゼッションをした。まず、軽井沢では『酒・女・博打』の機関を禁止するっことを提案した。この提案はすぐに承認され、軽井沢から『飲む・打つ・買う』の三悪習を永遠に追放する不文律ができたのである。こうして、軽井沢憲法が生まれた。今から考えてみると、実に偉大な貢献であった。しかも、その多くは宣教師で、その信条や収入から考えて、サマー・コテージにふさわしい木造・板葺屋根の清楚な建物で、生活もいたって簡素であった。
日常の生活は、礼拝、思索、読書、散歩、テニス、時にはハイキングやピクニック、馬の遠乗りなどのスポーツ、午後の清談、晩さん後の団らん、ときどきもよおす避暑団の講演会や音楽会などで、金はかからないがいかにも楽しい節度ある健康そのものの生活であった。人生の慰楽を人やもlのに求めず、自然とスポーツに求める―というのが、かれらのつくりあげた『軽井沢雰囲気』であった。」と書いている。

