大正期には文人も多く訪れるようになった。明治の末から、若山牧水や島崎藤村、伊藤左千夫、正宗白鳥が軽井沢に立ち寄っている。大正2年5月、中勘助が追分に遊び、日記体で綴った「裾野」に浅間山麓の情景を描き、同9年、有島武郎が軽井沢での生活を描いた随筆紀行「信濃日記」を『新家庭』に発表、翌10年北原白秋が「落葉松」の詩を発表するなど、軽井沢が世に紹介されるようになった。12年、有島武郎が三笠の別荘で情死する事件は、軽井沢の名を全国的に知らせた。
大正13年、芥川龍之介は、室生犀星や堀辰雄とともに、旧道つるや旅館に滞在、翌年も訪れ、7月22日にはがきに「今日の午後1時頃この宿につきました。ここは夕方73、4度、雨の日は64、5度になるさうです。まだちょっと落ちつきません。町には西洋人が多い故、仲々ハイカラです。」と書いている。翌年も堀辰雄は軽井沢に滞在し、芥川龍之介のお伴をして、峠や追分、沓掛などの古駅をみてまわった。その後のいくつかの作品の舞台として軽井沢が登場し、文学の世界を通じて軽井沢が広く紹介されることになった。
別荘地としての価値は上がり、土地や建物が安く手に入った明治の中ごろとは様子が一変した。日本人上流階級の避暑生活は宣教師たちには華美に見えるようになった。 大正10年、軽井沢町では、別荘所有不在者税を徴収することになり、外国人の反対の中で実施された。
こうした中で、外国人避暑客の中には、野尻湖の南岸、神山に外国人のみの別荘地を作る動きが出てきた。美しい湖のほとりに軽井沢の4分の1という地価の安さ(1坪1.11円)日本人を入れない外国人だけの別荘地ということで、軽井沢から移り住む人もいた。
’Nojiri Lake Association 1967 Year BookのHistorical Noteの項に
「After describing the initial visit Nojiri of a small group of “rebels” agaist the “Karuizawa pink teas,starched collars and seven conferences a week “Mr Mckenzie descrifed the early development of a NLA」
という一節がある。初期の開発者マッケンジーは、1923年に三代目の村長をした人であるが、”Karuizawa pink teas”(華美な雰囲気)と”Starched collars and seven conferences a week”(一週間に何回もの気取った社交的な会)をきらって野尻湖へ移ったと読み取ることができる。宣教師や大戦に負けたドイツ人たちは経済的理由が最も大きかった。NLAの設立に長野のノルマンが大きくかかわり、日本人を入れない外国人だけのコミュニティをつくっていった。
大正15年の7月の北信毎日新聞の”今の軽井沢”の一節に、
「お金のない人大きらい、といったブルジョア万能の土地となっていやしないか、貴族符号の如き特殊階級のみが楽しむこと許されているのではないか、資本家は、坪一銭以下の安価で土地を購入したけれど、今は一円以上でなければ売らないのである。貸別荘にしても、百円以上でなければ貸さないそうで、軽井沢に暑を避けようとすれば、月収千円以上もなければ到底できない相談である。」と書いているように、明治期と比べて、避暑生活に金がかかるようになってきた。
野沢原、千ヶ滝の大規模別荘地開発は、避暑のための別荘を日本の上流階級に普及させる素地をつくった。
大正元年(1912)には、193戸だった別荘は、14年には626戸と3倍以上になり、大正11年の71戸を最高に、年々数十戸の別荘が立てられるという増加を示した。
大正3年7月、新・旧軽井沢、沓掛、離山や別荘地の一部に長野電燈会社によって952燈の電燈がつき、福島安正(陸軍大将)が別荘を新築している。
翌4年には、草津軽便鉄道株式会社が、新軽井沢~小瀬温泉間に蒸気機関車で営業運転を始め、野沢原にも、大隈・徳川・細川家といった大型別荘が建築され、大正5年7月には尾崎行雄が南土取場に山荘(莫哀山荘)を建てた。
外国人の中でも、大正6年に、カナダ人R・M・アンドリウスが、一万五千坪の広い敷地に自家発電所をそなえて別荘を建て、鳥獣を飼育するなど、それまで見られなかった豪壮なものであった。
日本人の間でも、政界・財界をはじめ文化人など、上流階級による大型別荘が野沢原を中心に建てられるようになった。
大正8年、ゴルフ場建設の機運がもり上がり、翌9年、徳川慶久、田中寛、西巴清、ライフスナイダー外数名によって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は、大隈別荘付近の離山中腹、旧桂公別荘付近も候補に上がったが、野沢善次郎が提供することになった水源地付近に決まった。
敷地―6万坪、貸主―神田(金偏に、旁が雷、の文字)蔵、野沢善次郎、借主―徳川慶久、田中寛、立会人―加藤高明であった。地代は、最初の5年間は無料、つぎの5年間は年に1千円、さらにつぎの5年間は年に2千円の15ヵ年契約で会った。マニラのプログルファー、ニコルスを招いて、草ぼうぼうの荒地の現地踏査を行い、大体の設計を行った。
対象10年、サント・グリンの6ホールと野芝のフェアウエーができ上がり、11年夏には9ホールが完成した。
軽井沢ゴルフ倶楽部創立当時のメンバーをみると、会長徳川慶久、貴族13人、実業家25人、学者6人、外国人8人、その他30余名と政界、財界をはじめ文化人など、日本の上流階級が名を連ねている。
その後、グリーンを高麗芝に植え替え、摂政宮をお迎えするまでに整備が進み、クラブハウスが新築されて、軽井沢での第1号ゴルフ場は完成し、それまでの、テニスと野球に加えて、新しいスポーツの時代に入ることになった。
別荘の庭で、子供たちのためのティー・パーティやゲームが行われ、苔の生えた樅の木の下でガーデン・パーティが開かれ、別荘へ来ている日本人ばかりでなく英米の子供たちも招かれた。食事は、ベランダにつったドラを合図に、庭やコートにいる子供たちが集まって食べた。東京から連れてきた女中たちが、イギリス製の大きな鉄ストーブに薪をくべて、ビーフ・パイなどの西洋料理をつくった。軽井沢に来て食べる楽しみの一つはコーンだった。ふかしたての湯気の立っているコーンに、たっぷりバターを塗った。コーンの粒が舌の上ではじけると甘い汁が出る。アイスクリームを自宅で作ることもあった。氷と塩をいっぱいつめた木製の樽のようなアイスクリーム機の手をグルグル回した。一時間ほどかけてやっとできたアイスクリームはまろやかなこくのある舌ざわりで、口いっぱいに幸福感がみなぎった。
そのころの軽井沢の遠乗りは自転車であった。私は赤い自転車を持っていて、別荘から下の町へ毎日相当なスピードで下りて行った。そのころは自動車は少なく、人も少なく、自転車であっちの別荘へ行ったり、こっちの別荘へ行ったりした。三、四人、あるいは五人、六人で自転車を乗り回すこと自体が結構面白かった。”学習院の男の方々の自転車競走”の話は、北白川宮佐和さまや細川護貞さんからもうかがった。
北白川宮、竹田宮、朝香宮の若いプリンスたち、近衛公爵、細川侯爵、酒井伯爵、柳沢伯爵方とジュニアたちが参加、親対息子のレースであった。
竹田宮は、日光に行っておられたが、軽井沢は遠出ができるし、乗馬、テニス、ゴルフその他のスポーツもできるというので、大正12年(1924)半田別荘を借り、のちに鹿島の森に別荘を建てられた。北白川宮も近藤別荘を借りておられ、大正15年に建った北白川別邸には、佐和さまのお母さまだけが逗留なさっていた。」
ここに(朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』)書かれている軽井沢での別荘での生活には黒田伯爵をはじめ、大正時代の上流階級の人々の名前が多く出てくる。当時、旧軽井沢や野沢原に別荘を持っていた人たちは、貴族や政治・経済界のトップに位置する人々とその家族であった。
朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』の大正期の軽井沢の頃には、日本人による軽井沢での避暑生活がよく描き出されているので、その内容を要約する。
「大正6年(1917)、朝吹家は、黒田清伯爵に母が『軽井沢はいい所ですよ。ぜひ行っていらっしゃい』と、すすめられ、小坂家の別荘を借りて夏を過ごしたことにはじまる。父は静かで簡素な軽井沢が気に入って『バーが一軒もなく、子供の教育によい。』といって別荘を買う気になり、カナダの宣教師からハウスナンバー815の別荘を大正9年に買う決心をしたという。
別荘は愛宕山に登るアタゴ・レーンの中途にある古い別荘地にあり、矢ヶ崎川の両側の土手には大きなモミやカエダ、白樺、栗の木などが互いに枝を重ね合わせて立っていた。夕方、山から下りてくる白い霧、カッコーの声、せせらぎの音、黒光りするカブトムシ、大きな蛾、白い水玉の紙切り虫、杉苔の林、ヤニの青臭い匂い、激しい雷雨、ヤマカガシ、アオダイショウなどの蛇、セキレイ、キツツキ、リス、キジの鳥にいたるまで、自然は豊富で変化に富んでいた。
白い霧は煙のように庭をおおい、テニスコートに侵入し、ネットや赤いダリヤが白いベールに包まれる。真昼の高原は強い太陽の光が両腕の肌をこがし、白色の黄昏は住む世界を別世界に変える神秘さをもっていた。
水もおいしかった。別荘の敷地内に流れている小川から汲み上げた、冷たくて澄んだ山の水だった。水汲みばあさんと呼ばれた女の人たちが、天秤棒の前後に桶をつるし、小高い坂道を登って別荘に水を運び上げた。(桶一杯八銭か十銭)、別荘番もよく水を汲んで五右衛門風呂と台所の大きなかめに水を張った。
別荘は二階建てベランダつきの洋風建築でえんじ色のベンガラで塗った簡素な木造であった。二階に寝室が四つあり、階下に食堂、暖炉付きの居間、そして女中部屋があった。
大正の初めまでは石油ランプだったが、私費で電線を引いた。電燈の笠は手作りの目の粗い竹かごを逆さにつるしたような形で、内側に薄い羽二重が裏うちしてあり、縁にぐるっとリリアンの房が垂れていた。
家具は桜の花などの図柄の特産の軽井沢彫りの本棚や違い棚、テーブル、化粧台が置かれ、緑色に塗ったモダンな籐椅子が置かれていた。
ベッドは黒塗りに金色の真鍮の球の飾りがついたイギリス製のもの、日本製の木作りでバネのかわりに太い麻縄を張ったものが使われた。その上に木綿の蒲団が敷いてあった。
5,6歳の頃の私は、山に登ったり、ピクニックに行ったり、赤い自転車に乗ってと遠出をしたりした。兄たちと庭の樅の木の枝で小屋を作ったり、ロビン・フッドごっこをしたりして飛び回った。矢ヶ崎川の川べりに下りて、裸足になり、重い石を動かして防波堤を作ることもあった。洋服の裾が水でぬれないように、スカートをブルマーズにたくしこんで水の中を歩いた。こういう土木工事は軽井沢でなければできない遊びで、私たちは熱中したが、都会の子どもにとって新鮮な興奮であった。
大正2年(1913)避暑外人の任意団体「公益委員会」によって決議された「軽井沢避暑団」は、大正5年(1916)D.C.ライク、ダニエル・ノルマンや島田三郎ら内外人有志によって設立された。軽井沢で夏の間、避暑のために滞在する人々に対して、心身の鍛練向上と文化教養に寄与することを目的とした。
尾崎行雄の「聴渓閑話」に「避暑団は最初西洋人のみでやっていたが、日本人も仲間に入るようになり、私なども仲間になっていた。会議は公会堂の庭の木の下へ各自が手近かな処から椅子を持ち出して来て開くのである。それがなかなか趣があって昔の会議もこんなではないかと思われる。西洋人が公共の事に熱心なのには実に感心である。私などは口ではずいぶんやかましく言う方であるが、実行となるととても西洋人のまねはできない。日本人は租税を一旦納めてしまえば、それがどう使われようと一向平気であるが、西洋人はそうではない。軽井沢の避暑団でも”租税が、夏来るものに少しも関係ない事に多く使われるのは不条理である。なるべく夏来るもののためにもなるように使ってもらいたい”といって、しばしば当局者に警告している。西洋人の中には、公共の世話をする事を無上の道楽にしている人がいる。軽井沢の南東部には西洋人ばかりの一角がある。そこは道路でも下水道でも手入れがよく行き届いているが、ひとりの老人が別荘から金を出してもらって人夫を雇い自分が監督して手入れや世話をしているという。(中略)
田舎にいる宣教師などは、平素交際もなくまず本を読むくらいが精神的栄養であるが、軽井沢にはインド以東から三千人も集まって来るのだから、いろいろの精神的栄養を取ることができる。学者もあれば音楽家も来たり美術家も来るというように、いろいろの種類の人が来て、それがみんな知識でも技芸でも自分の持っているものは何でも快く出し合ってお互いに利用する。幹事が計画を立てて講演や演奏を公会堂でやるのであるが、盛んな時にはほとんど毎日昼夜二回ずつやっている。西洋人は避暑をしながら、それを有益に利用する。日本人も数年前、三井の連中などの寄附で公会堂を造ったが、どうもあまりこれを利用しない。」(町誌軽井沢 名士より送られた感想)と当時の様子について述べられている。 軽井沢避暑団は会長に推されて「軽井沢の村長さん」と呼ばれていたダニエル・ノルマンを中心に、新しい道路敷設に、病院の設立に、そのほか避暑客の頼みごとと、町役場や警察、土地の古老たちとの交渉までも行った。ノルマン夫人は当時の様子を『婦人の友』に書いている。
「軽井沢はわたくしどもにとっては第二の故郷であります。<軽井沢>―という一言だけ聞いても、わたくしの胸には数えきれないほど多くの思い出がわきあがってまいります。それは真夏の季節ともなれば盛んな国際都市が出現いたします。また数々の国際会議のセンターになります。無数の人々が殺到するいくつかのテニスコート、毎週開かれるコンサート、よく準備された盛んな礼拝での感銘深い聖歌隊や名説教等々かぞえきれないものがあります」。
大正11年(1922)、日本人有志によって「軽井沢集会堂」が建設された。この集会場を使って後援会・音楽会・映画界・展覧会が開かれて会員に公開されたほか、軽井沢地方の博物標本を数多く集収して展示したり、日本に関する多くの図書も備えて、研究や日本文化の紹介につとめた。
前から避暑客たちが心配していた病気に対しては直営の国際診療所が発足した。大正14年(1925)、軽井沢避暑団経営の軽井沢病院がマンローを院長に迎えて開業し、7月から9月までの診療に当たった(10月から翌年6月まではマンローが借り受け診察する)。
避暑団ではマンロー博士に頼んで「ブヨ」の撲滅についての研究をしたり、日本人の増加によって上がりだした品物の値段を調べて売値を制限するなど生活全般にわたって活動した。日曜日には「休業」という札をかけさせたので街は静かになった。テニスコートも閉鎖され、協会から讃美歌が流れ、祈祷が行われた。日本人の中にも、ネクタイをつけた男の子、きれいなサンデードレスを着た女の子が教会へ行って讃美歌を聴く姿が見られるようになった。
別荘客と西洋人との交わりは樅の木の下でのティーパーティや西洋風の遊戯を通して行われた。野球などのアメリカのスポーツも入ってきた。
佐藤不二男は『軽井沢物語』の中で、
「軽井沢避暑団(KSRA-Karuizawa Summer Residents Association)は、外国人有志の不動産の寄附によるもので、いわば彼らの自治行政であった。その会員の資格としては、ハイ・モラル・キャラクター(品行方正)が条件であった。
大自然を仲介とした人と人との交わりをモットーとし、町や県当局に対して適切なサゼッションをした。まず、軽井沢では『酒・女・博打』の機関を禁止するっことを提案した。この提案はすぐに承認され、軽井沢から『飲む・打つ・買う』の三悪習を永遠に追放する不文律ができたのである。こうして、軽井沢憲法が生まれた。今から考えてみると、実に偉大な貢献であった。しかも、その多くは宣教師で、その信条や収入から考えて、サマー・コテージにふさわしい木造・板葺屋根の清楚な建物で、生活もいたって簡素であった。
日常の生活は、礼拝、思索、読書、散歩、テニス、時にはハイキングやピクニック、馬の遠乗りなどのスポーツ、午後の清談、晩さん後の団らん、ときどきもよおす避暑団の講演会や音楽会などで、金はかからないがいかにも楽しい節度ある健康そのものの生活であった。人生の慰楽を人やもlのに求めず、自然とスポーツに求める―というのが、かれらのつくりあげた『軽井沢雰囲気』であった。」と書いている。
明治37年(1904)から沓掛の北方浅間山に向かって湯川の上流2㎞の地点で、水車を利用して製材工場を営んでいた星野国次(初代嘉助)は、明治43年(1910)の大水害を契機として、赤岩鉱泉・塩坪の湯を荻原寛治より買い取って営業を始めた。
彼は明治から大正に入って、軽井沢がようやく避暑地として内外の注目を集め始めたのをみて、温泉開発に着手した。大正2年神社風の浴場を建てるとともに、星野温泉と名を改めた。熱い温泉を求めて、塩坪を中心に上総掘りという手掘りから、ロービング式掘さく機まで使って掘り、3年の春、浴場の完成に続いて旅館営業を開始した。
大正5年(1916)には池の端別館のほか、二号、五号別荘、7年にも七・八・十号と三つの別荘を建て、別荘と温泉を組み合わせた経営を行った。
この間、大正4年には鎌倉から円覚寺管長長釈宗演禅師を招き、同6年には天狗タバコの創始者、岩谷松平が一族郎党を引き連れて避暑がてら一夏をすごすなどにぎわいをみせはじめた。
大正9年(1920)の夏、にせ赤い鳥事件が縁となって、鈴木三重吉が家族と共に星野温泉を訪れた。翌10年8月、「赤い鳥」が呼びかけ、全国から140名を集めて「芸術自由教育講習会」が盛大に開かれた。講師として、我が国の農民美術運動の創始者山本鼎(大正7年にアトリエ建設)をはじめ、鈴木三重吉・北原白秋・沖野岩三郎などに恩を代表する作家のほか、宗教家であり学者でもある内村鑑三の課外講演会も行われた。この講習会は教育界に大きな影響を与えたばかりでなく、そのころから与謝野寛・晶子夫妻、若山牧水・喜志子夫妻など多くの作家、詩人が訪れるようになり、星野温泉周辺の別荘地化が進むことになった。
星野温泉の前身である赤岩鉱泉は、アルカリ性の温泉で古くから草津温泉の強酸性の湯治でただれた皮膚をなおすために親しまれていたが、星野嘉助によって新しく温泉としてよみがえり、その周辺一帯は新しい別荘地となっていった。大正以後の別荘地の大部分が長野県外の資本によって開発されていった中で、星野別荘地は佐久の製糸資本が投入されて開発されたことは注目に値する。
大正9年3月、堤康次郎によって箱根土地株式会社(資本金2千万円)が設立され、軽井沢は出張所となった。同社は、千ヶ滝ばかりでなく箱根方面に大きく進出することになった。軽井沢の北、群馬県万座の温泉・湯の花・硫黄の採取権を取得し、軽井沢まで温泉を引こうとした。この計画は実現しなかったが、万座温泉への途中にある天明3年に流出した鬼押出しの奇岩に着目し、前橋営林署へ天然物を保護する意味の申請書を出し、六里ヶ原一帯を買収した。
千ヶ滝地帯には、夏になると大型の巡回バスを運行して別荘客の便を図った。
大正10年に入ると、千ヶ滝に観翠楼を建築して営業を始め、湯川発電所の電気が別荘地に点灯されるなど整備された。千ヶ滝から峰の茶屋までの道路も開通した。 箱根土地株式会社は、軽井沢南部の発地の区有地421町歩の買収を行い(大平地区100町歩は返還)、分譲地造成を進め、12年には、南軽井沢で土地付き別荘の分譲を始めた。古くから地蔵ヶ原と呼ばれ、碓氷峠を越えるための女街道を通るだけの草原と湿地ばかりの土地に開発がおこなわれることになった。広大な土地を利用して、南軽井沢競馬場の建設に続いて、大正14年には南軽井沢飛行場が完成するなど南軽井沢一帯は大変貌を始めた。
大正12年、千ヶ滝地区上部の見晴らしの良い土地に、木造3階建て(建坪550坪)の近代的な軽井沢グリーンホテルが営業を開始、千ヶ滝事務所から四間道路を開さくした。別荘地の周辺部には、100坪の土地にかやぶきの別荘をたて、500円という低価で分譲を始めた。翌13年には、天然氷の採氷も始めた。また千ヶ滝学院を開設し、沖野岩三郎を園長に迎えて、別荘に滞在する子弟に勉学をすすめ、各種の教育を行った。
道路建設・バスの運行・電気・水道施設・マーケット・共同浴場と秘書生活に必要な条件が整うと、旧軽井沢周辺の外国人によって開発された別荘地帯とは異なった、新しい階層のための別荘地が軽井沢町全域に広がるようになった。
大正7年(1918)、堤康次郎は沓掛区有地の約60万坪を買収し、千ヶ滝の開発に着手した。それまで、旧軽井沢周辺に分布していた別荘は離山を越えて西に拡大し、全町別荘時代への幕開けとなった。
堤康次郎は、早稲田大学を卒業後、野沢原の大隈別荘を訪れていたが、野沢源次郎の開発と大型別荘がつぎつぎに建設されていく様子を目の当たりに見て、別荘地開発への構想をもった。大正の初期には旧軽井沢の周辺に外国人を中心とする避暑別荘が点々とつくられ、その西部一帯は野沢源次郎によって新しい別荘地の造成が行われていた。堤は永井柳太郎らの助言を得て、離山の西に広がる沓掛区有地の広大な落葉松林に着目した。
大正4年の夏、堤の買収申し入れによって沓掛部落の意見は分かれた。獅子岩と坂下地籍一帯は古くからの入会地であり、馬草や水田へ入れる緑肥の草刈り場として、また一年間の薪の供給地としても住民の生活に欠くことのできない土地であった。
「山林約百八十町歩余、金参万円也にて、三人が会社を組織し(土地を買収)沓掛発展策として別荘ならびに、スケート場、製氷業を開始し、開堰を利用し水力発電を起こし、電車によって避暑客の乗用諸運輸業の経営をなす目的にて区有地購入いたしたいと申し入れがあり、原案にて沓掛区の有力者を招集申し上げ候」の提案によって、区の有力者たちは協議し、村長の指名による二十名の詮衡委員を選んで審議したが、堤康次郎の提案した原案には賛成できないという意見もあった。しかし、結局は沓掛区発展のために区有地の一部を残して売り渡すことにし、区民総会を開いてつぎのような決議をした。
一、区有地獅子岩・坂下を別荘地解放目的にて金参万円にて売り渡す
一、売り渡し交渉成立の上は、契約手付金若干金受け取ること
一、所有権移転は、最低限度二ヶ年とし、二ヶ年間に相当の設備をなし、別荘五十戸以上建設なしたる時移転すること
一、もし、二ヶ年経過するも設備なさざるなど、等閑に付するときは、本契約は無効とし、手付金は返さざること
一、前記の事実を遂行するに付、当事者と区は円満協議し、ともに便宜を与うること
こうして千ヶ滝地区の売々契約が成立したのは、大正6年12月23日であった。区有地の東部を残して獅子岩・坂下地籍を売り渡すことによって、根づよく残っていた反対の意見をおさえることはできた。しかし条文に見られるように、沓掛区民の中には、書生として軽井沢を訪れていた若い堤康次郎によって、野沢原のような開発が行われるのか危惧の念を持つ人が多かった。
堤は、まず沓掛駅と千ヶ滝間に定期馬車を運行した。翌大正7年千ヶ滝遊園地株式会社(資本金25万円、社長藤田謙一)を設立して、水道敷設工事に着手し、共同浴場、千ヶ滝クラブの建設をはじめ、貸別荘や個人別荘の建築に当たった。水道管は六尺の松の丸太をくりぬいたものをつなぎ、道路の十字路ごとに直径六尺の桶を地面にうめて水をため、各別荘へは手桶にて運んだという。浴場は、大理石でつくられた共同風呂と家族風呂があり、薪によってわかした。
大正8年(1919)千ヶ滝~沓掛間の道路(旧草津街道)の回収に着手し、千ヶ滝マーケットの建築を始め、湯川第一発電所を建設して別荘に送電、この年から別荘の分譲を始めた。
工事は、道路・水道・電話・発電所など、西は旧草津街道から東は湯川までの間、南は御影用水から北は国有林までの広い地域にわたって一斉に行われた。多い日には600人もの人夫が集まり、七つの作業班にわかれて能率的に進められた。
野沢原の開発によって別荘地は旧軽井沢の西部と南部に大きく広がり、別荘地の入手が容易になった。折から世界第一次大戦がはじまった。日本は大正3年8月ドイツに宣戦布告して山東半島に出兵、イギリスの援助などによる経済の発展をもたらし、日本人の中にも別荘を持てる階層が増加して、別荘地拡大に拍車をかけた。
野沢源次郎と姻戚関係にあった近藤友右衛門も、軽井沢での高原療養の効果を認め、大正5年(1916)山林原野を買収して別荘分譲を始めた。大正8年には、二手橋近くの末松謙澄の別荘を譲り受け、碓氷峠付近の原野約10ヘクタールを買収し、山頂にあずまやを造り、モミジを植え、水道を敷設して「見晴らし台」を完成した。
熊野神社の南、長野・群馬県境の台地は、東は妙義山の奇岩や碓氷川の谷から遠く高崎方面までの関東平野西部一帯が、南は甲武信の山々から八ヶ岳・蓼科の連山と佐久平のほぼ全貌、西は美ヶ原から北アルプスの白い峰々、そして北には手にとるような近さに浅間山の雄姿と裾野一帯に点在する別荘が眺望できるといった大パノラマを満喫でいる展望台に生まれ変わった。
大正10年、鶴根山と聖沢山を切り開いて延長3キロメートルにおよぶ遊覧歩道(自然歩道)を設け、紅葉谷の渓流につり橋をかけ、熊野神社とも合わせた新しい観光拠点をつくりあげた。
近藤友右衛門は、さらに旧軽井沢通りの東に、”近藤長屋”と呼ばれている貸店舗を造って出入り業者に貸すなど幅広い事業を行った。
大正8年根津嘉一郎は、矢ケ崎山麓の川上操六の所有地を買収し、別荘を建て、その東に貸別荘をはじめた。それまで、桂太郎の別荘のみであった信越本線の南部が別荘となっていく契機となった。
鉄道の駅から離れた宿場として静かなたたずまいをみせていた追分地区へも、大正に入って、高木子爵や画家の松林桂月がアトリエを作った。大正10年ころになるとこの静かな涼しい宿を求めて、高等文官試験を受ける学生が、追分の油屋をはじめ何軒かの宿で勉強するようになった。
明治末まで、旧軽井沢のまわりに個々に土地を求め、別荘が建てられていた軽井沢が、大正に入ると大規模な別荘地開発、別荘分譲によって西に拡大しはじめた。
大正元年(1912)、群馬県安中の半田善四郎が、11万5119坪の土地を別荘地として分譲を始め、貸別荘経営を行った。半田山と呼ばれる一帯である。
大正4年、野沢源次郎は川田龍吉・肥田濱五郎所有の土地を譲り受け、続いてその周囲の土地を買収して、離山付近から三度山までの約200万坪にわたって土地分譲と別荘経営をはじめた。
まず、道路の整備に着手し、雲場池から六本辻にかけて、幅員三間の直線的な道路を縦横に設け、「かしわ通り」・「ゆりのき通り」などの名前をつけ、土地の区画整理を行った。それまでの字(あざ)を廃し、自分の姓をとってこの一帯を「野沢原」と新しい名前をつけた。付近は広漠とした草原であったが、アメリカ式建築設計施工、家具製作販売を行っていた株式会社「あめりか屋」によって別荘を50戸ほど建築した。さらに、別荘客の生活の便をはかるため、東京の一流商店を出展させ、日用品の供給や理髪等のサービスを行った。
人家がすくなかったので治安のために交番をおき、官舎をつくるために敷地を提供するなどの心くばりもあった。土地の分譲を受けた人の中には、徳川慶久・大隈重信・細川護立・後藤新平・加藤高明・鈴木喜三郎など政界・財界・軍人・学者・文士らが多く、大型の別荘が次々に新築された。その中でも前田・大隈・徳川別荘などは大規模で、広大な敷地に西洋建築の近代的別荘がそびえ、離山の下にあった大隈別荘は駅前から見ることができた。道路にそってはもみの木が植えられ、草の多かった敷地にも松やカエデなどの木が育った。軽井沢観光のポスターに使われている細川邸内のニレやモミの並木は、このころ植えられたものである。
野沢源次郎は、青年時代から病弱であったが、大正3年(1914)青山胤通医博に軽井沢への転地療養を勧められ、はじめて軽井沢を訪れた。長い間悩まされていた病が回復するのを感じとった彼は、それ以後毎年軽井沢で夏を過ごすことになった。夏の軽井沢は低い温度と湿度による涼しさばかりでなく、オゾンの多い清浄な空気と火山灰や軽石に被われたなだらかな草原が彼の病気をいやした。散歩の途中、自然の中での外国人の避暑生活を見聞し、旧軽井沢の西に広がる草原に、新しい高原保養地をつくろうとする事業意欲をもった。
そのため、別荘地を造成して土地分譲、貸別荘経営ばかりでなく、軽井沢通俗夏期大学の行動や寄宿舎を建築して無償で提供したほか、旧ゴルフ場開設に際して所有地6万坪を提供するなど、運動・勉学などにも援助をおしまなかった。源次郎自身も毎夏軽井沢で療養していたが、後に離山下の桂太郎の別荘を手に入れて、晩年にはコブシの花の咲く頃から秋まで滞在し、94歳で亡くなるまで軽井沢を愛した一人であった。

