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軽井沢日記TOP » その他 » 町誌に見る・軽井沢別荘史⑫大正時代の別荘地の変貌㊦
2008/12/10 水曜日 at 10:16:19
Posted by eiji in その他

 大正期には文人も多く訪れるようになった。明治の末から、若山牧水や島崎藤村、伊藤左千夫、正宗白鳥が軽井沢に立ち寄っている。大正2年5月、中勘助が追分に遊び、日記体で綴った「裾野」に浅間山麓の情景を描き、同9年、有島武郎が軽井沢での生活を描いた随筆紀行「信濃日記」を『新家庭』に発表、翌10年北原白秋が「落葉松」の詩を発表するなど、軽井沢が世に紹介されるようになった。12年、有島武郎が三笠の別荘で情死する事件は、軽井沢の名を全国的に知らせた。 
 大正13年、芥川龍之介は、室生犀星や堀辰雄とともに、旧道つるや旅館に滞在、翌年も訪れ、7月22日にはがきに「今日の午後1時頃この宿につきました。ここは夕方73、4度、雨の日は64、5度になるさうです。まだちょっと落ちつきません。町には西洋人が多い故、仲々ハイカラです。」と書いている。翌年も堀辰雄は軽井沢に滞在し、芥川龍之介のお伴をして、峠や追分、沓掛などの古駅をみてまわった。その後のいくつかの作品の舞台として軽井沢が登場し、文学の世界を通じて軽井沢が広く紹介されることになった。
 別荘地としての価値は上がり、土地や建物が安く手に入った明治の中ごろとは様子が一変した。日本人上流階級の避暑生活は宣教師たちには華美に見えるようになった。
 大正10年、軽井沢町では、別荘所有不在者税を徴収することになり、外国人の反対の中で実施された。
 こうした中で、外国人避暑客の中には、野尻湖の南岸、神山に外国人のみの別荘地を作る動きが出てきた。美しい湖のほとりに軽井沢の4分の1という地価の安さ(1坪1.11円)日本人を入れない外国人だけの別荘地ということで、軽井沢から移り住む人もいた。
 ’Nojiri Lake Association 1967 Year BookのHistorical Noteの項に
「After describing the initial visit Nojiri of a small group of “rebels” agaist the “Karuizawa pink teas,starched collars and seven conferences a week “Mr Mckenzie descrifed the early development of a NLA」
 という一節がある。初期の開発者マッケンジーは、1923年に三代目の村長をした人であるが、”Karuizawa pink teas”(華美な雰囲気)と”Starched collars and seven conferences a week”(一週間に何回もの気取った社交的な会)をきらって野尻湖へ移ったと読み取ることができる。宣教師や大戦に負けたドイツ人たちは経済的理由が最も大きかった。NLAの設立に長野のノルマンが大きくかかわり、日本人を入れない外国人だけのコミュニティをつくっていった。

 大正15年の7月の北信毎日新聞の”今の軽井沢”の一節に、
「お金のない人大きらい、といったブルジョア万能の土地となっていやしないか、貴族符号の如き特殊階級のみが楽しむこと許されているのではないか、資本家は、坪一銭以下の安価で土地を購入したけれど、今は一円以上でなければ売らないのである。貸別荘にしても、百円以上でなければ貸さないそうで、軽井沢に暑を避けようとすれば、月収千円以上もなければ到底できない相談である。」と書いているように、明治期と比べて、避暑生活に金がかかるようになってきた。


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