朝吹登水子著『私の軽井沢物語―霧の中の時を求めて―』の大正期の軽井沢の頃には、日本人による軽井沢での避暑生活がよく描き出されているので、その内容を要約する。
「大正6年(1917)、朝吹家は、黒田清伯爵に母が『軽井沢はいい所ですよ。ぜひ行っていらっしゃい』と、すすめられ、小坂家の別荘を借りて夏を過ごしたことにはじまる。父は静かで簡素な軽井沢が気に入って『バーが一軒もなく、子供の教育によい。』といって別荘を買う気になり、カナダの宣教師からハウスナンバー815の別荘を大正9年に買う決心をしたという。
別荘は愛宕山に登るアタゴ・レーンの中途にある古い別荘地にあり、矢ヶ崎川の両側の土手には大きなモミやカエダ、白樺、栗の木などが互いに枝を重ね合わせて立っていた。夕方、山から下りてくる白い霧、カッコーの声、せせらぎの音、黒光りするカブトムシ、大きな蛾、白い水玉の紙切り虫、杉苔の林、ヤニの青臭い匂い、激しい雷雨、ヤマカガシ、アオダイショウなどの蛇、セキレイ、キツツキ、リス、キジの鳥にいたるまで、自然は豊富で変化に富んでいた。
白い霧は煙のように庭をおおい、テニスコートに侵入し、ネットや赤いダリヤが白いベールに包まれる。真昼の高原は強い太陽の光が両腕の肌をこがし、白色の黄昏は住む世界を別世界に変える神秘さをもっていた。
水もおいしかった。別荘の敷地内に流れている小川から汲み上げた、冷たくて澄んだ山の水だった。水汲みばあさんと呼ばれた女の人たちが、天秤棒の前後に桶をつるし、小高い坂道を登って別荘に水を運び上げた。(桶一杯八銭か十銭)、別荘番もよく水を汲んで五右衛門風呂と台所の大きなかめに水を張った。
別荘は二階建てベランダつきの洋風建築でえんじ色のベンガラで塗った簡素な木造であった。二階に寝室が四つあり、階下に食堂、暖炉付きの居間、そして女中部屋があった。
大正の初めまでは石油ランプだったが、私費で電線を引いた。電燈の笠は手作りの目の粗い竹かごを逆さにつるしたような形で、内側に薄い羽二重が裏うちしてあり、縁にぐるっとリリアンの房が垂れていた。
家具は桜の花などの図柄の特産の軽井沢彫りの本棚や違い棚、テーブル、化粧台が置かれ、緑色に塗ったモダンな籐椅子が置かれていた。
ベッドは黒塗りに金色の真鍮の球の飾りがついたイギリス製のもの、日本製の木作りでバネのかわりに太い麻縄を張ったものが使われた。その上に木綿の蒲団が敷いてあった。
5,6歳の頃の私は、山に登ったり、ピクニックに行ったり、赤い自転車に乗ってと遠出をしたりした。兄たちと庭の樅の木の枝で小屋を作ったり、ロビン・フッドごっこをしたりして飛び回った。矢ヶ崎川の川べりに下りて、裸足になり、重い石を動かして防波堤を作ることもあった。洋服の裾が水でぬれないように、スカートをブルマーズにたくしこんで水の中を歩いた。こういう土木工事は軽井沢でなければできない遊びで、私たちは熱中したが、都会の子どもにとって新鮮な興奮であった。
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