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軽井沢日記TOP » その他 » 町誌に見る・軽井沢別荘史⑨軽井沢避暑団の活動
2008/11/9 日曜日 at 12:00:06
Posted by eiji in その他

 大正2年(1913)避暑外人の任意団体「公益委員会」によって決議された「軽井沢避暑団」は、大正5年(1916)D.C.ライク、ダニエル・ノルマンや島田三郎ら内外人有志によって設立された。軽井沢で夏の間、避暑のために滞在する人々に対して、心身の鍛練向上と文化教養に寄与することを目的とした。
 尾崎行雄の「聴渓閑話」に「避暑団は最初西洋人のみでやっていたが、日本人も仲間に入るようになり、私なども仲間になっていた。会議は公会堂の庭の木の下へ各自が手近かな処から椅子を持ち出して来て開くのである。それがなかなか趣があって昔の会議もこんなではないかと思われる。西洋人が公共の事に熱心なのには実に感心である。私などは口ではずいぶんやかましく言う方であるが、実行となるととても西洋人のまねはできない。日本人は租税を一旦納めてしまえば、それがどう使われようと一向平気であるが、西洋人はそうではない。軽井沢の避暑団でも”租税が、夏来るものに少しも関係ない事に多く使われるのは不条理である。なるべく夏来るもののためにもなるように使ってもらいたい”といって、しばしば当局者に警告している。西洋人の中には、公共の世話をする事を無上の道楽にしている人がいる。軽井沢の南東部には西洋人ばかりの一角がある。そこは道路でも下水道でも手入れがよく行き届いているが、ひとりの老人が別荘から金を出してもらって人夫を雇い自分が監督して手入れや世話をしているという。(中略)
 田舎にいる宣教師などは、平素交際もなくまず本を読むくらいが精神的栄養であるが、軽井沢にはインド以東から三千人も集まって来るのだから、いろいろの精神的栄養を取ることができる。学者もあれば音楽家も来たり美術家も来るというように、いろいろの種類の人が来て、それがみんな知識でも技芸でも自分の持っているものは何でも快く出し合ってお互いに利用する。幹事が計画を立てて講演や演奏を公会堂でやるのであるが、盛んな時にはほとんど毎日昼夜二回ずつやっている。西洋人は避暑をしながら、それを有益に利用する。日本人も数年前、三井の連中などの寄附で公会堂を造ったが、どうもあまりこれを利用しない。」(町誌軽井沢 名士より送られた感想)と当時の様子について述べられている。
 軽井沢避暑団は会長に推されて「軽井沢の村長さん」と呼ばれていたダニエル・ノルマンを中心に、新しい道路敷設に、病院の設立に、そのほか避暑客の頼みごとと、町役場や警察、土地の古老たちとの交渉までも行った。ノルマン夫人は当時の様子を『婦人の友』に書いている。
「軽井沢はわたくしどもにとっては第二の故郷であります。<軽井沢>―という一言だけ聞いても、わたくしの胸には数えきれないほど多くの思い出がわきあがってまいります。それは真夏の季節ともなれば盛んな国際都市が出現いたします。また数々の国際会議のセンターになります。無数の人々が殺到するいくつかのテニスコート、毎週開かれるコンサート、よく準備された盛んな礼拝での感銘深い聖歌隊や名説教等々かぞえきれないものがあります」。
 大正11年(1922)、日本人有志によって「軽井沢集会堂」が建設された。この集会場を使って後援会・音楽会・映画界・展覧会が開かれて会員に公開されたほか、軽井沢地方の博物標本を数多く集収して展示したり、日本に関する多くの図書も備えて、研究や日本文化の紹介につとめた。
 前から避暑客たちが心配していた病気に対しては直営の国際診療所が発足した。大正14年(1925)、軽井沢避暑団経営の軽井沢病院がマンローを院長に迎えて開業し、7月から9月までの診療に当たった(10月から翌年6月まではマンローが借り受け診察する)。
 避暑団ではマンロー博士に頼んで「ブヨ」の撲滅についての研究をしたり、日本人の増加によって上がりだした品物の値段を調べて売値を制限するなど生活全般にわたって活動した。日曜日には「休業」という札をかけさせたので街は静かになった。テニスコートも閉鎖され、協会から讃美歌が流れ、祈祷が行われた。日本人の中にも、ネクタイをつけた男の子、きれいなサンデードレスを着た女の子が教会へ行って讃美歌を聴く姿が見られるようになった。
 別荘客と西洋人との交わりは樅の木の下でのティーパーティや西洋風の遊戯を通して行われた。野球などのアメリカのスポーツも入ってきた。
 佐藤不二男は『軽井沢物語』の中で、
「軽井沢避暑団(KSRA-Karuizawa Summer Residents Association)は、外国人有志の不動産の寄附によるもので、いわば彼らの自治行政であった。その会員の資格としては、ハイ・モラル・キャラクター(品行方正)が条件であった。
 大自然を仲介とした人と人との交わりをモットーとし、町や県当局に対して適切なサゼッションをした。まず、軽井沢では『酒・女・博打』の機関を禁止するっことを提案した。この提案はすぐに承認され、軽井沢から『飲む・打つ・買う』の三悪習を永遠に追放する不文律ができたのである。こうして、軽井沢憲法が生まれた。今から考えてみると、実に偉大な貢献であった。しかも、その多くは宣教師で、その信条や収入から考えて、サマー・コテージにふさわしい木造・板葺屋根の清楚な建物で、生活もいたって簡素であった。
 日常の生活は、礼拝、思索、読書、散歩、テニス、時にはハイキングやピクニック、馬の遠乗りなどのスポーツ、午後の清談、晩さん後の団らん、ときどきもよおす避暑団の講演会や音楽会などで、金はかからないがいかにも楽しい節度ある健康そのものの生活であった。人生の慰楽を人やもlのに求めず、自然とスポーツに求める―というのが、かれらのつくりあげた『軽井沢雰囲気』であった。」と書いている。


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