大正7年(1918)、堤康次郎は沓掛区有地の約60万坪を買収し、千ヶ滝の開発に着手した。それまで、旧軽井沢周辺に分布していた別荘は離山を越えて西に拡大し、全町別荘時代への幕開けとなった。
堤康次郎は、早稲田大学を卒業後、野沢原の大隈別荘を訪れていたが、野沢源次郎の開発と大型別荘がつぎつぎに建設されていく様子を目の当たりに見て、別荘地開発への構想をもった。大正の初期には旧軽井沢の周辺に外国人を中心とする避暑別荘が点々とつくられ、その西部一帯は野沢源次郎によって新しい別荘地の造成が行われていた。堤は永井柳太郎らの助言を得て、離山の西に広がる沓掛区有地の広大な落葉松林に着目した。
大正4年の夏、堤の買収申し入れによって沓掛部落の意見は分かれた。獅子岩と坂下地籍一帯は古くからの入会地であり、馬草や水田へ入れる緑肥の草刈り場として、また一年間の薪の供給地としても住民の生活に欠くことのできない土地であった。
「山林約百八十町歩余、金参万円也にて、三人が会社を組織し(土地を買収)沓掛発展策として別荘ならびに、スケート場、製氷業を開始し、開堰を利用し水力発電を起こし、電車によって避暑客の乗用諸運輸業の経営をなす目的にて区有地購入いたしたいと申し入れがあり、原案にて沓掛区の有力者を招集申し上げ候」の提案によって、区の有力者たちは協議し、村長の指名による二十名の詮衡委員を選んで審議したが、堤康次郎の提案した原案には賛成できないという意見もあった。しかし、結局は沓掛区発展のために区有地の一部を残して売り渡すことにし、区民総会を開いてつぎのような決議をした。
一、区有地獅子岩・坂下を別荘地解放目的にて金参万円にて売り渡す
一、売り渡し交渉成立の上は、契約手付金若干金受け取ること
一、所有権移転は、最低限度二ヶ年とし、二ヶ年間に相当の設備をなし、別荘五十戸以上建設なしたる時移転すること
一、もし、二ヶ年経過するも設備なさざるなど、等閑に付するときは、本契約は無効とし、手付金は返さざること
一、前記の事実を遂行するに付、当事者と区は円満協議し、ともに便宜を与うること
こうして千ヶ滝地区の売々契約が成立したのは、大正6年12月23日であった。区有地の東部を残して獅子岩・坂下地籍を売り渡すことによって、根づよく残っていた反対の意見をおさえることはできた。しかし条文に見られるように、沓掛区民の中には、書生として軽井沢を訪れていた若い堤康次郎によって、野沢原のような開発が行われるのか危惧の念を持つ人が多かった。
堤は、まず沓掛駅と千ヶ滝間に定期馬車を運行した。翌大正7年千ヶ滝遊園地株式会社(資本金25万円、社長藤田謙一)を設立して、水道敷設工事に着手し、共同浴場、千ヶ滝クラブの建設をはじめ、貸別荘や個人別荘の建築に当たった。水道管は六尺の松の丸太をくりぬいたものをつなぎ、道路の十字路ごとに直径六尺の桶を地面にうめて水をため、各別荘へは手桶にて運んだという。浴場は、大理石でつくられた共同風呂と家族風呂があり、薪によってわかした。
大正8年(1919)千ヶ滝~沓掛間の道路(旧草津街道)の回収に着手し、千ヶ滝マーケットの建築を始め、湯川第一発電所を建設して別荘に送電、この年から別荘の分譲を始めた。
工事は、道路・水道・電話・発電所など、西は旧草津街道から東は湯川までの間、南は御影用水から北は国有林までの広い地域にわたって一斉に行われた。多い日には600人もの人夫が集まり、七つの作業班にわかれて能率的に進められた。
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