明治末まで、旧軽井沢のまわりに個々に土地を求め、別荘が建てられていた軽井沢が、大正に入ると大規模な別荘地開発、別荘分譲によって西に拡大しはじめた。
大正元年(1912)、群馬県安中の半田善四郎が、11万5119坪の土地を別荘地として分譲を始め、貸別荘経営を行った。半田山と呼ばれる一帯である。
大正4年、野沢源次郎は川田龍吉・肥田濱五郎所有の土地を譲り受け、続いてその周囲の土地を買収して、離山付近から三度山までの約200万坪にわたって土地分譲と別荘経営をはじめた。
まず、道路の整備に着手し、雲場池から六本辻にかけて、幅員三間の直線的な道路を縦横に設け、「かしわ通り」・「ゆりのき通り」などの名前をつけ、土地の区画整理を行った。それまでの字(あざ)を廃し、自分の姓をとってこの一帯を「野沢原」と新しい名前をつけた。付近は広漠とした草原であったが、アメリカ式建築設計施工、家具製作販売を行っていた株式会社「あめりか屋」によって別荘を50戸ほど建築した。さらに、別荘客の生活の便をはかるため、東京の一流商店を出展させ、日用品の供給や理髪等のサービスを行った。
人家がすくなかったので治安のために交番をおき、官舎をつくるために敷地を提供するなどの心くばりもあった。土地の分譲を受けた人の中には、徳川慶久・大隈重信・細川護立・後藤新平・加藤高明・鈴木喜三郎など政界・財界・軍人・学者・文士らが多く、大型の別荘が次々に新築された。その中でも前田・大隈・徳川別荘などは大規模で、広大な敷地に西洋建築の近代的別荘がそびえ、離山の下にあった大隈別荘は駅前から見ることができた。道路にそってはもみの木が植えられ、草の多かった敷地にも松やカエデなどの木が育った。軽井沢観光のポスターに使われている細川邸内のニレやモミの並木は、このころ植えられたものである。
野沢源次郎は、青年時代から病弱であったが、大正3年(1914)青山胤通医博に軽井沢への転地療養を勧められ、はじめて軽井沢を訪れた。長い間悩まされていた病が回復するのを感じとった彼は、それ以後毎年軽井沢で夏を過ごすことになった。夏の軽井沢は低い温度と湿度による涼しさばかりでなく、オゾンの多い清浄な空気と火山灰や軽石に被われたなだらかな草原が彼の病気をいやした。散歩の途中、自然の中での外国人の避暑生活を見聞し、旧軽井沢の西に広がる草原に、新しい高原保養地をつくろうとする事業意欲をもった。
そのため、別荘地を造成して土地分譲、貸別荘経営ばかりでなく、軽井沢通俗夏期大学の行動や寄宿舎を建築して無償で提供したほか、旧ゴルフ場開設に際して所有地6万坪を提供するなど、運動・勉学などにも援助をおしまなかった。源次郎自身も毎夏軽井沢で療養していたが、後に離山下の桂太郎の別荘を手に入れて、晩年にはコブシの花の咲く頃から秋まで滞在し、94歳で亡くなるまで軽井沢を愛した一人であった。
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