1.ショー、ディクソンによる避暑
明治16年(1883)夏、軽井沢三度屋に経済学者として世界的に著名なベルリン大学教授カール・ラートゲンが滞在、明治19年には宣教師であったアレキサンダー・クロフト・ショーと帝国大学文科講師ディクソンの二人が、旅行の途中相前後して軽井沢を訪れた。人通りの少ない静かな宿場、そのまわりに広がる草原と林、浅間山の雄大な山容となだらかな裾野の景観に心をひかれた二人は、七月上旬家族を伴って再び訪れた。ショー一家は高林薫平居宅、ディクソン一家は佐藤万平(注1)所有の家屋を借り受け、八月下旬まで滞在した。
カナダのトロント市に生まれ、父のもとで神学校に学び、卒業後日本に派遣されて東京麻布の教会で牧師をしていたショーとその家族による軽井沢での生活は、自然の中で健康的なものであった。明治6年(1873)9月に横浜に上陸して以来、日本語の勉強、慶応義塾でキリスト教倫理学の講義、日本各地での宣教活動の中で、高温多湿の日本の夏の生活は、ショーにとって苦痛に感じたことだろう。
後にショーの長男(R.D.M.ショー)が佐藤不二男にあてた手紙の中で「胸いっぱいに吸った空気の甘さは、軽井沢以外では知らない。景色雄大、小鳥のさえずり、百花の妍、父が家族の健康のため軽井沢を選んだことを今でも嬉しく思う。子供心にも軽井沢は天国と思った」と述懐しているように、すんだ空気、緑におおわれたなだらかな草原、松やモミとカエデの混交林、朝夕に流れる霧は、はるか故郷を遠く離れた寂しさをいやした。ショーとディクソンは、軽井沢の夏のすばらしさについて語り、十数名の友人をさそって、翌二十年にも避暑にきた。この二夏の経験によって軽井沢の良さを確認したショーは、二十一年つるや主人佐藤仲右衛門の斡旋で民家を移築改造し、大塚山に別荘を作った。ディクソンは佐藤万平宅地内に別荘を建てた。これが軽井沢における避暑別荘の始まりである。
ショーは、その後毎年家族をともなって軽井沢を訪れ、イギリス聖公会堂を開いて布教をするとともに、子供たちと気を伐り、氷池で泳ぐなど、自然の中での生活を行った。
明治22年(1889)、二人の誘いを受けたキルベ(貿易商)、ヴェール(青山学院教師)、ミス・アレキサンダーが別荘を建てた。ミス・アレキサンダーは、頌栄女学校生徒に二十余名を引率して、涼しい軽井沢で林間教育を行った。この年避暑客は生徒を除いて三十余名となった。
明治23年には、英国公使館ヒュー・フレザーが、二手橋近くの五万坪の敷地に別荘を建てた。外国人の避暑客が多くなると、亀屋旅館でも貸間を提供して便をはかった。別荘も二十一年に二戸が建てられたのをはじめ、三戸、五戸と建てられていった。
二十八年(1895)にイギリス人宣教師ホワイトの建てた別荘は、廃屋のようになっていた家を、非常に安く買い受けて改造したものであった。土地は一坪わずか三銭から、高くても十二銭ぐらいで、実業家や大学講師のように経済的に恵まれていなかった宣教師でも、容易に別荘を持つことができた。また、夏休み中の二か月を過ごすためのものであったから、山小屋に近い簡素なものでよかった。
(注1)軽井沢万平ホテル(前身は旅館「亀屋」、佐藤万右衛門が開業)の黎明期を発展させた重要人物の一人で初代万平。もう一人は佐藤国三郎で初代万平の娘婿。二代目万平を襲名。軽井沢万平ホテルのHPでも「私たちは二人の意志を今に引き継いでいるのです」とあります。なお、町誌には(注)書きはありません。
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