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軽井沢日記TOP
2008/8/28 木曜日 at 8:15:48
Posted by eiji in その他

 内・外国人の別荘は、軽井沢宿のまわりにつぎつぎに建てられ、明治39年(1906)には18戸増えて113戸となり、それ以後年々20戸ほどの別荘が増加(うち日本人は2~3戸)したので、軽井沢周辺は大きく変貌していった。そこで軽井沢郵便局では東・西・南・北に分けて別荘番号を付けて郵便物の配達が容易に正しく行われるようにした。 佐藤孝一著「かるゐざわ」によると明治末の別荘分布の概要はつぎのごとくであった(明治の頃の文章をもとにして)。
 <東区>(East Part)宿の東、中山道より南、諏訪道より東の山麓に開けた草野一帯で、展望の開けたところである。森裏、釜の沢、桜の沢、丸小山、今道沢に別荘があり、21年(1888)5月にあ建てられたショー氏の別荘は大塚山の頂上にあって、浅間山の眺めが素晴らしかったといわれている(現在大塚山頂には建物はない)。
 また、泉源亭は31年、子爵末松謙澄が建てた別荘で、川越石川に臨み、山中の清水の流れを邸内に引き入れている(現東海銀行寮)。桜の沢には35年に宿場の通りにあった万平ホテルが移転した。2万坪の広大な敷地に洋室22をもつ洋風建築であった。

 <北区>(North Part)碓氷旧道の北から、草津新道の東、宿の北部一帯をさし、一ノ字山、愛宕山中腹と麓にあたる。当時の愛宕山には大きな木がなく眺望のよい別荘地であった。高瀬沢、愛宕道、吉ヶ沢に別荘が点在していた。とくに英国大使館別荘は、二手橋の東にあり、5万坪の敷地にはモミの大木がしげり、自然を生かした深い森の中にあった。愛宕山の西南には三井家の別荘があり、庭の西隅に日本女子大学の夏期寮「三泉寮」が建てられていた。
 宿の東端にはつるや旅館があり、その裏には「水車小屋の三軒別荘」といわれた外国人による新築別荘が並んでいた。

 <西区>(West Part)草津新道の西、旧中山道の北の平坦地で、長尾の原、西山、深山から離山、さらには北へのびて三笠と呼ばれる地域にあたる。江木衷、新渡戸稲造、二条公爵、川田龍吉、鹿島岩蔵などの日本人別荘が多く、ほかの3地区に比べると新しい地域といえる。
 北にはなれて、明治38年(1905)に落成した木骨様式の三笠ホテルが人々の目を引いていた。また、離山の東山麓で雲場池近くにも4軒ほどの外人別荘があり、長尾の原一帯は広々とした草野原であった。

 <南区>(South Part)町の南部一帯の草野で東は矢ヶ崎より西の地域で、森前、上森、下森、森裏、押出橋の別荘地をさす。平坦の広い原であるが別荘は宿に近い地域に建てられていた。日本人で初めて別荘を建てた八田裕二郎、佐々木政吉などの別荘があった。

 <離山>軽井沢の西離山の麓に雨宮邸、鉄道線路の南の林の安価に桂太郎の別荘があった。

 <追分>追分宿の南に鉄道院の野村龍太郎、坪井清次郎の別荘があった。


2008/8/27 水曜日 at 10:26:17
Posted by eiji in その他

 明治26年(1892)日本人として初めての別荘が、海軍大佐八田裕二郎のよって建てられた。八田は、東伏見宮の随行員としてイギリス・フランスに旅行し、二十二年に帰朝したが、健康を害していた。ヨーロッパのアルプスでの高原療養を見聞していた彼は、北海道、日光、箱根にと空気の清涼な土地を求めたが、地形の広さ、湿度、交通上などの条件を満たさなかった。
  火山灰に被われた標高一〇〇〇メートル近い軽井沢の清涼で湿度の低い空気と、南に開かれた地形や乾燥の早い土地は、オゾンが多く彼の健康を増進させた。軽い草履にステッキという姿で、散歩をするのに適した草原が広がっていた。八田は、モンブランにも勝る避暑地と思って、旧軽井沢の西南の端に別荘を建てた。軽井沢で健康を取り戻した彼は、日本赤十字病院長の橋本綱常やドクトル・ベルツとともに、夏の転地療養に高原の軽井沢へ別荘を建てることをすすめた。外国人ばかりでなく末松謙澄・三井三郎助・樋上専次郎・江木衷・佐々木政吉らが明治三一、二年ころ別荘を建てることになった。
 また、八田裕二郎は学習院の学生をつるや旅館(新軽井沢)に宿泊させ、健康の増進をはかるとともに、多くの外国人と接して修養の機会とさせた。これらの学生の中には、徳川慶久のように後に別荘を建てた人が多かったといわれ、日本の上流社会に別荘建築が行われる契機となっていった。


2008/8/26 火曜日 at 8:52:27
Posted by eiji in その他

1.ショー、ディクソンによる避暑

 明治16年(1883)夏、軽井沢三度屋に経済学者として世界的に著名なベルリン大学教授カール・ラートゲンが滞在、明治19年には宣教師であったアレキサンダー・クロフト・ショーと帝国大学文科講師ディクソンの二人が、旅行の途中相前後して軽井沢を訪れた。人通りの少ない静かな宿場、そのまわりに広がる草原と林、浅間山の雄大な山容となだらかな裾野の景観に心をひかれた二人は、七月上旬家族を伴って再び訪れた。ショー一家は高林薫平居宅、ディクソン一家は佐藤万平(注1)所有の家屋を借り受け、八月下旬まで滞在した。

 カナダのトロント市に生まれ、父のもとで神学校に学び、卒業後日本に派遣されて東京麻布の教会で牧師をしていたショーとその家族による軽井沢での生活は、自然の中で健康的なものであった。明治6年(1873)9月に横浜に上陸して以来、日本語の勉強、慶応義塾でキリスト教倫理学の講義、日本各地での宣教活動の中で、高温多湿の日本の夏の生活は、ショーにとって苦痛に感じたことだろう。  
後にショーの長男(R.D.M.ショー)が佐藤不二男にあてた手紙の中で「胸いっぱいに吸った空気の甘さは、軽井沢以外では知らない。景色雄大、小鳥のさえずり、百花の妍、父が家族の健康のため軽井沢を選んだことを今でも嬉しく思う。子供心にも軽井沢は天国と思った」と述懐しているように、すんだ空気、緑におおわれたなだらかな草原、松やモミとカエデの混交林、朝夕に流れる霧は、はるか故郷を遠く離れた寂しさをいやした。ショーとディクソンは、軽井沢の夏のすばらしさについて語り、十数名の友人をさそって、翌二十年にも避暑にきた。この二夏の経験によって軽井沢の良さを確認したショーは、二十一年つるや主人佐藤仲右衛門の斡旋で民家を移築改造し、大塚山に別荘を作った。ディクソンは佐藤万平宅地内に別荘を建てた。これが軽井沢における避暑別荘の始まりである。

  ショーは、その後毎年家族をともなって軽井沢を訪れ、イギリス聖公会堂を開いて布教をするとともに、子供たちと気を伐り、氷池で泳ぐなど、自然の中での生活を行った。
 明治22年(1889)、二人の誘いを受けたキルベ(貿易商)、ヴェール(青山学院教師)、ミス・アレキサンダーが別荘を建てた。ミス・アレキサンダーは、頌栄女学校生徒に二十余名を引率して、涼しい軽井沢で林間教育を行った。この年避暑客は生徒を除いて三十余名となった。
 明治23年には、英国公使館ヒュー・フレザーが、二手橋近くの五万坪の敷地に別荘を建てた。外国人の避暑客が多くなると、亀屋旅館でも貸間を提供して便をはかった。別荘も二十一年に二戸が建てられたのをはじめ、三戸、五戸と建てられていった。
 二十八年(1895)にイギリス人宣教師ホワイトの建てた別荘は、廃屋のようになっていた家を、非常に安く買い受けて改造したものであった。土地は一坪わずか三銭から、高くても十二銭ぐらいで、実業家や大学講師のように経済的に恵まれていなかった宣教師でも、容易に別荘を持つことができた。また、夏休み中の二か月を過ごすためのものであったから、山小屋に近い簡素なものでよかった。
 

(注1)軽井沢万平ホテル(前身は旅館「亀屋」、佐藤万右衛門が開業)の黎明期を発展させた重要人物の一人で初代万平。もう一人は佐藤国三郎で初代万平の娘婿。二代目万平を襲名。軽井沢万平ホテルのHPでも「私たちは二人の意志を今に引き継いでいるのです」とあります。なお、町誌には(注)書きはありません。


2008/8/25 月曜日 at 10:23:38

住宅ローンの融資額上限なしをウリとするHSBCプレミアのスマート住宅ローンを紹介しましたが、1億円以上の高額ローン商品を扱う先はそうありません。そんな中で住宅ローン融資額が2億円まで(と上限はありますが)のGE Money億さまプラン(以下GE)があります。両商品を比較してみました。
hsbc-ge20080823.JPG
両商品のおもな相違点は、
①融資金額に上限なし(HSBC)と、2億円まで(GE )のほかに、
②返済期間が35年以内(HSBC)に対して、GEは40年以内と5年間長い
③返済方法が元金均等返済のみ(HSBC)に対して、GEは元利均等返済のみである
④団信加入は任意で借入人負担(HSBC)に対して、GEは強制で保険料同社負担である
⑤事務手数料が73500円(HSBC)の定額制に対して、GEは貸付金×1.5%(例:1.2億円の場合、180万円)と定率制である
⑥その他手数料面で定額と定率の違いや、1回あたりの金額の多寡の違いが見られる。
この商品は、融資対象が高額物件購入者という経済的に恵まれた層の方々なので細かい問題を指摘するのはこの際止めておきます。

肝心の金利について触れませんでしたので、以下比較してみておきます。
hsbc-ge-kinri.JPG
一覧するとHSBCがGEより全体的に基準金利が低く設定されている印象を受けます。しかし、よく見ると、HSBCは担保の掛け目によって金利が最大0.6%上乗せされる仕組みに対して、GEは借入人の保有資格などによって最大1%の金利優遇が受けらるなどの違いがあります。実際に高額物件購入時には、個々のケースに当てはめて総合的に比較検討してみる必要がありそうです。


at 9:08:48

第三世代の住問題としたのは、以下の理由からです。学校卒業までが第一世代、サラリーマン卒業までが第二世代、その後の人生が第三ステージと捉えているからです。敢えて第三世代と呼ぶのは、団塊世代と呼ぶには対象が限られ的確でない、老後と呼ぶには言葉の響きに躍動感がなく適当でない等からこう呼ぶことにしました。

シリーズの3回目は、ジャーナリスト蟹瀬誠一さんのケーススタディです。8月1日付日経新聞26面の全面広告「豊かな住生活に貢献する住宅産業」から転載して紹介することにします。

自分らしい住まいをカタチにしてみたくなった
 僕(蟹瀬さん)はもともと家を所有することには魅力を感じていませんでした。不動産というくらいですから、所有すると自由に動けなくなってしまう。仕事の上でも何か新しいことに挑戦したくなった時、自由に拠点を構えられる気ままな賃貸暮らしを手放すつもりはありませんでした。
 しかし五十代も半ばを過ぎるころから、そろそろ自分自身が落ち着ける場所が欲しいと考えるようになりました。そんな時、米国の経済学者の書いた本の中で人生における四つの資産という考え方に出合って、本格的に家を持つことを考えるようになりました。(略) もし自分に所得がなくなっても、とりあえず家さえあれば寝る場所は確保できる、そんな安心感が欲しくなりました。そしてそれ以上に、借りものではない本当に自分らしい住まいを形にしてみたくなったのです。

 ヨーロッパなどに度々取材に出かけますが、北欧やロシアではごく普通の人がウイークエンドハウスを郊外に持っていて、週末になると都会を離れて自然に親しんでいる。また都市自体にも緑が多く、自然との共生を考えて造られている。東京に帰ってくると、まさに都市機能だけの街。自然との触れあいの大事さを痛感するようになってきました。
 とはいえ、僕は田舎暮らしをしたいわけではありません。田園都市というか、自然に親しみながらも都市の利便性も享受できる、そんな場所が理想でした。
 かつて田園都市構想によって整備された街もありましたが、今は都会の中にのみ込まれています。二十一世紀の田園都市はどこだろうと探してみて、出合ったのが軽井沢です。
 ご存じのように軽井沢は新幹線、高速道路も整備され交通アクセスが非常に良い。都心から一時間の通勤圏内にあります。その上、素敵なホテルやおいしいレストランもあり、都市的なアメニティも充実しています。住んでいる方々も多士済々で個性に富んだコミュニティが形成されています。
 そして何よりも自然がすばらしい。鳥のさえずりとか森の彩りの移り変わりなどがごく身近に感じられる。軽井沢に住むまでは木の芽が出てきたというだけで感動するようなことはなかったですね。(略)

家は価値観表現の場 生きざまや経験が表れる
家というのは無論生きていく上での拠点ですが、自分の価値観を表現する場とも思います。その人の生きざまとか物の考え方が家には表れるのです。僕の場合は自然との共生と、要らないものは省いていくというシンプルスタイル。都会ではなかなか理想の実現は難しかったのですが、軽井沢ではとことんこだわりました。(略)

 この軽井沢の住まいは別荘ではありません。こちらでも仕事をしていますし、まもなく住民票も移して本格的に地域コミュニティの一員としての暮らしが始まります。冗談で町長にならないかとも言われました(笑い)。一方で、都心のオフィス兼住居もそのままにしています。東京と軽井沢を行ったりきたりしているわけですが、やりたいことがたくさんあって大いに忙しいですね。
 人生を一本の線にして描いてみてくださいとお願いすると、多くの方は放物線を描かれます。生まれてから壮年期を迎えるまで上昇し、あとは人生のたそがれに向かってなだらかに下降していく線です。でも僕の周りの元気なシニアに描いてもらうと、みな右肩上がりの直線ばかり。つまりしぬ時が人生のピークというわけす。僕もそうありたいと願っています。
 今実践しているこの東京と軽井沢の暮らしも、そんなアクティブな人生を実現するための僕なりの方法です。もちろんすべての人に当てはまるものではありませんが、日本人の価値観が多様化して、ライフスタイルもさまざまになっている現在、人生の器である住まいや暮らし方が多様化していくのは当たり前のことです。

第三世代の住問題(1)ケーススタディわたくしの場合はこちら
第三世代の住問題(2)紀平正幸氏のコラムからはこちら